それからの自分は、最後まで父に心を開く事は無かった。
小学6年生が生活など出来るわけが無いが、
私は抵抗を止めなかったし、止めようとしなかった。
それは家出と窃盗で食べては、警察に捕まり
父に折檻で殴られ、最後は父も手を余して警察へ
だが、その時の父の折檻は私自身が死ぬかと思う状況であった。
警察でも、よく死ななかったなと言われるほどであった。
最終的に私は鑑別所へ入れられ、家裁へ廻されたのである。
私は家裁で自ら施設でも、何処でも良いから入れてくれと
嘆願していた、それは父の傍では自分は駄目になると
感じ取っていたからなのだ。
そこには父を親として認めていない自分が居たのである。
私は母を信頼していたし、尊敬していたから
尚の事、父に対しては反抗的だったのだろう。
家裁では少年院か犯罪少年の入る強護施設か養護施設かを
決定する事に成ったが、私の方から父とは暮らしたくないと言う
希望から施設に決定したのである。
結果的には養護施設に決定された。
私自身は少年院を覚悟していたが、家裁側の情状酌量の余地ありとの
判断であったのと、私の犯罪行為の過程を考えてくれたのであろう。
私は、その時は中学1年生に成っていたのである。
約1年、父に反抗していたのであるが、施設に入る事により
父と離れる事が出来る事と、暴力から解放される安堵感に満ちていた。
施設では普通の中学校に通い、一般の子供たちと勉強した。
私は父から解放された事もあり、成績も良かったので学級委員にも
選ばれたりもした。
施設の子としては初めてであったようだが、
私自身は、あまり勉強した覚えもなかったが成績は学年でも
トップクラスであった。
私たちの頃は生徒数も学年では400人近く居たし
試験ごとに結果が廊下に張り出されていた時代である。
だから自然に誰が、成績が良いか分かるのである。
そんな事で自分が変われた部分は、父との別れであったと思う。
だが「施設の子」と言う差別からは逃れる事は出来なかった。
これは子供の世界では、残酷なものであったと思う。
確かに自分の意思で施設に入って来た子は少ない。
ましてや養護施設であれば、親の都合で入って来た子も少なくない。
私のように自ら望んで入ったわけではないし、施設に入る事を
望んではいなかった子が多いであろう。
悪くて入った子もいたが、半数以上は親の都合で入って来た子が
多かった。
施設内は規則で動く、だから自分の意志では動く事は少ない。
また、子供たちの世界であるから、そこには派閥的構造がなされる。
力でねじ伏せる団体と、それに従う団体、私のように一匹狼的存在が
集まって施設が成り立っていた。
施設は一般社会から隔離された部分もあり、それが子供たちには
理解出来ない部分があったと思う。
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