イジメに関する私の考え方

イジメに関しては、奥が深い。 いじめる側は家庭環境での問題がある子が多いと思う。 いじめる側の家庭では、知らなかったという親が居るが それは違っているような気がするのである。 私のように虐待を受け、そのストレスが他にぶつける事が いじめる側になりかねないのと、いじめられる側にもなりうる。 だが親はそれを認めず、躾と言ったりするが、違っている。 子供は、暴力的な躾は、それが劣等感になりうるのである。 子供は恐怖感から、自分が駄目だと思ってしまい劣等感になり それが子供として、伸びる部分を摘んでしまう場合が多い。 私の場合は親の暴力的な躾で、自分を萎縮させた部分が多かった。 それが自分の劣等感になっていたし、学校に行っても その面が出ていた部分が多かった。 逆に、そのストレスが、いじめる側になる部分が多い。 ただ、私の場合は母が庇ってくれ、自分の代わりに父の暴力を受け、 それが父に対する憎しみが強くなった部分があった。 それが別な面で出て、反骨精神を生まれだしたと思っている。 そこには父の暴力で、母が亡くなった事が大きすぎたからだと思う。 その事によって私の反骨精神が、イジメに対しても 負けない部分を作ったのと、私は母を尊敬していた、 母はカトリック信者で人に対する、色んな面を教えてくれた、 それは人に接する優しさである。 子供は親の背中を見て育つ事は、親は分かっているであろう。 家庭で子供の良い点を褒めるたり、躾をきちんとしている子供には いじめる子は少なし、いじめられる側になる事は無いように思う。 だが現在の親たちは、高度成長期に育ち、私から言わせると 躾に対して甘い部分が多すぎる。 善悪を教え方が下手、子供の自立心を 考えていない部分が多すぎる。 「絆」という言葉も、私たちの頃は自然であったが、 今回の東日本大震災で「絆」が言われるようになったのは 日本人自体が「絆」を忘れていたからだと思うのである。 その忘れていた「絆」が、今回の大震災で出てきたのだと思う。 こんな事を書いたら、年寄りの戯言と言われるであろうが 私の経験談から思うと、今、親の躾は「個」を優先している 人と人の輪を教えないし、学校でも、それを教えていない。 受験のために学科を教え、如何に良い学校に入るかを 優先しているし、親もそれに同調して競争心を植え付け 人と人の絆を忘れた学校教育と家庭で育つことによって いじめをエスカレートさせた部分があると思う。 それは行政にも問題があるし、私たちが育てた子供にも なお、そのようにしてきた私たち世代も責任がある。 今の世代で反省できる、今回の大震災による「絆」を 大切にして行かなければならない。 それは、いじめと違っていると思う人もいるであろうが 人と人の「絆」や労りの気持ちを植えつける事によって いじめの部分は少なくなるであろうと思う。 そこには家庭と学校での躾の仕方もある、良し悪しを はっきりと理解させる事によって、いじめの問題は少なくなると思う。 だが、今の人に対する思いやりや、労りを教える家庭が少ないように 思うのは、親の世代が受けた教育にもある。 今のいじめは陰険になりつつあるのは、学歴社会を進行させ 国の成長とともに、いじめも歪つになって来たと思う。 いじめに関しては、裕福でも貧困でも、無くなる事は 無いであろう。 私も途上国で仕事をしたが、貧困の差でも、いじめを見たし 私たちの時代でも貧困の差による、いじめがあった。 これは子供の中では、どうしようも出来ないことである。 貧しい子は、いじめる側になる率が多い、裕福な子は いじめられる側になる率が多いようだ。 私の時代も同じ傾向であった。 だが死に至らしめる、いじめは無くするべきである。 それは父兄も学校側も行政も、それなりの対策を考えて もう一度、人間感の「絆」を教えるべきである。 今回の大震災で、そのチャンスが来たと思う。 人と人の交わりの中で、労りや優しさを学ぶことが出来 いじめに対しても、子供の中でいじめを対処する気持ちを 育てる事が出来て、いじめが少なくなるであろう。 いじめに関しては、無くする事は出来ないが、 人との絆や、人との繋がりを教えることによって 考えて行くべきである。 それは親も学校も行政も対応しなければ、いじめは 少なくならないであろうし、今の状態ではいじめは 陰険なり、いじめが巧妙化してくるだけであろう。 行政も親も学校も、色々な方策を考える時期である。 今の状態で、騒いでいるだけでは、いじめはむしろ 陰険になるだけであろう。 これは大人たちの責任である。

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