Archive for 4月, 2014

自分を振り返って4

木曜日, 4月 3rd, 2014

次に差別に関しては、自分の経験から人を差別する事に関して

少なくなったと思う。

差別を自分自身で、していないとは言えない。

私も人間であるから、差別やイジメをしていないとは言えない。

ただ、相手を思いやる気持ちは持つようになった。

これは私の母からも学んだし、施設でも学んだ事である。

自分が差別を受けた時の気持ちを考えると、他人に対して

同じような事は出来ない気持ちに成る。

母もそうであったが人に優しく温かい人であった。

カトリックの信者であったからかもしれないが、

人に対しては思いやりがあった。

私は小さかったが、母を見て育った部分が

人に対する思いやりを持てる事が出来たと思う。

確かにオットリした部分がある母であったが

人を思いやる気持ちは強い人であった。

前にも書いたが父は、お酒は飲まない人であったが

直ぐに手が飛んで来る人であり、父の暴力で母が痣だらけの

場面を幾度も見ていたし、自分も受けた経験からも

母はよく我慢していたと思う。

母は幾度か実家へ逃げ帰った事があり、私が父と別れたらと

言った事がある。

その時の母の答えが「お前たちが居るから別れない」と帰って来た。

それだけ子供たちの事を考える人であった。

また、父は病弱なのか仕事をしない事が多かったので

母が働いて、私たち兄妹を食べさせてくれていたのである。

あの頃は男が働き親子を食べさせるのが当たり前と

考えられていた時代であるから女性が働く場所は少なかった。

その母の優しさを、私の今の年代に成っても思い出す。

そんな母から学んだ事と自分自身が「施設の子」と言う

差別的な経験から、私は、差別は人を傷つけるだけであると

感じ取ったし、自分なりの考え方を持つようになった。

確かに施設から普通の学校に行っていたが、

私の場合は学校では3年間、必ず学級委員に選ばれたが

施設の子供会の会長もやっていて、町の子供会の集まった

会長にも選ばれたが、その時に運営する大人が

「あの子は施設の子だろう」と言う声が聞こえた。

だが子供たちに推薦されて会長となったが、

そこには大人たちが、私たち施設の子に対しての

偏見を感じたのである。

それでも会長に成ったのは学校の同級生が

皆で応援してくれたからであろう。

その時、自分なりに負けたくないという気持ちが強くなったのを

今でも感じるし、あの時に自分なりに一生懸命やれば報われると

思ったのである。

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自分を振り返って3

水曜日, 4月 2nd, 2014

子供の世界は、ある時は残酷でもある。

力でねじ伏せる事も当たり前であり、自己防衛力が無ければ

従わなければならないのが子供の世界である。

ましてや施設の中は、子供たちの世界であるから限度を

知らない部分が多い。

私は学校で学級委員等や、成績も良かったので

施設内では暴力的なグループに目を付けられる。

だが一般的に見て「施設の子」というレッテルを貼られて

見るのが施設外の人たちである。

それは大人も子供も同じであった。

これは仕方のない事であるが、施設内の子供にしては

耐えられない環境ではある。

自ら施設を選んだ子は殆どいない。

誰しもが一般社会で暮らしたと子供心に思っていたであろう。

生活の糧を得られる年代に達していないため施設と言う枠に

入って、規則にはめられて生活しているだけなのである。

だから一般社会から「施設の子」という見方をされると

反発してしまう傾向は強い。

多くの子は、それに負けて学校などで悪グループに成る。

その中で目立ってしまった私は、施設内でイジメの

ターゲット対象に成ってしまった。

だから、上級生や同級生に呼び出しを受けて殴り合いの

喧嘩をさせられた。

相手は一人では無い、三人ぐらいが当たり前で

最後は自分が疲れきってボコボコされるのである。

これも施設の職員に見つかれば大事に成るので

隠れてやる。

見張りが立って部屋でやらされるが、職員が来ると

私たちを囲んで見えなくして遊んでいた振りをするのである。

私は幾度かブログにイジメに関して書いたが

イジメは無くならないであろう。

イジメが騒がれると、イジメ形が陰険になるだけなのである。

だが、私はこの施設での経験は、自分が大人になってから生かされた。

私は最後まで一匹狼的存在を貫いたが、施設でも学校でも

信頼を得る事が出来たし、差別に対しても、この経験で生かされたと思う。

人は差別やイジメを行うが、これは人として生きて行く上で

消えないであろう。

私は差別もイジメも同じ意味だと思っている。

子供ではイジメと言う言い方を使い、大人同士では差別という言葉を

使っているだけである。

内容は同じである。

私自身、この経験が社会人に成って、自分なりに生かしたと思う。

それは若い頃は暴力的に脅す相手に反抗的であり、よく喧嘩をした。

そこには暴力に屈しない自分が居たが、同時に警察の厄介にもなった。

相手はチンピラや下端やくざなので、最初は相手の挑発に乗って

私が手を出してしまったが、相手のやり方は言葉で挑発して

相手に手を出させるのが目的なのである事が分かり、

それからは自分から手を出さなくなった。

そこには施設時代の暴力に屈しない自分が居たのと

人を暴力で威圧する事に反発したから、社会人に成って

その様な暴力で脅す人間を嫌ったのであろう。

ただ、警察に行って最初の頃は自分が怒られる事が多かった。

相手は警察に何度も厄介になっている連中なので顔見知りなので

警察と互いに挨拶をする状態であった。

このように施設で経験した事が、自然に自分なりの防衛本能を

作り上げて居たのであろう。

それは海外でも生かされた、周りが危険だから一人で行くなと

言う所にも良く出入りしていた。

誰と親しくなれば危険では無いという本能が働き、

その人物と親しくなったりしたし、海外では二度ほどピストルを

突き付けられたが、自分自身は、それ程危険を感じていなかった。

これも自分が少年時代に歩んで来た経験が

そうさせたような気がする。

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自分を振り返って2

火曜日, 4月 1st, 2014

それからの自分は、最後まで父に心を開く事は無かった。

小学6年生が生活など出来るわけが無いが、

私は抵抗を止めなかったし、止めようとしなかった。

それは家出と窃盗で食べては、警察に捕まり

父に折檻で殴られ、最後は父も手を余して警察へ

だが、その時の父の折檻は私自身が死ぬかと思う状況であった。

警察でも、よく死ななかったなと言われるほどであった。

最終的に私は鑑別所へ入れられ、家裁へ廻されたのである。

私は家裁で自ら施設でも、何処でも良いから入れてくれと

嘆願していた、それは父の傍では自分は駄目になると

感じ取っていたからなのだ。

そこには父を親として認めていない自分が居たのである。

私は母を信頼していたし、尊敬していたから

尚の事、父に対しては反抗的だったのだろう。

家裁では少年院か犯罪少年の入る強護施設か養護施設かを

決定する事に成ったが、私の方から父とは暮らしたくないと言う

希望から施設に決定したのである。

結果的には養護施設に決定された。

私自身は少年院を覚悟していたが、家裁側の情状酌量の余地ありとの

判断であったのと、私の犯罪行為の過程を考えてくれたのであろう。

私は、その時は中学1年生に成っていたのである。

約1年、父に反抗していたのであるが、施設に入る事により

父と離れる事が出来る事と、暴力から解放される安堵感に満ちていた。

施設では普通の中学校に通い、一般の子供たちと勉強した。

私は父から解放された事もあり、成績も良かったので学級委員にも

選ばれたりもした。

施設の子としては初めてであったようだが、

私自身は、あまり勉強した覚えもなかったが成績は学年でも

トップクラスであった。

私たちの頃は生徒数も学年では400人近く居たし

試験ごとに結果が廊下に張り出されていた時代である。

だから自然に誰が、成績が良いか分かるのである。

そんな事で自分が変われた部分は、父との別れであったと思う。

だが「施設の子」と言う差別からは逃れる事は出来なかった。

これは子供の世界では、残酷なものであったと思う。

確かに自分の意思で施設に入って来た子は少ない。

ましてや養護施設であれば、親の都合で入って来た子も少なくない。

私のように自ら望んで入ったわけではないし、施設に入る事を

望んではいなかった子が多いであろう。

悪くて入った子もいたが、半数以上は親の都合で入って来た子が

多かった。

施設内は規則で動く、だから自分の意志では動く事は少ない。

また、子供たちの世界であるから、そこには派閥的構造がなされる。

力でねじ伏せる団体と、それに従う団体、私のように一匹狼的存在が

集まって施設が成り立っていた。

施設は一般社会から隔離された部分もあり、それが子供たちには

理解出来ない部分があったと思う。

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