Archive for 4月, 2014

変な奴2-4

水曜日, 4月 30th, 2014

奴は「でも、あの時に、ある人に言われたよな“売名行為”だと」

「人は、それぞれ考え方が違うから自分では良いと思っても

他人から見ると違う見方をされるのだよ」

 

「確かに言われた、でも自分は何も求めていなかったから

言った人を心の小さい奴だと思っただけだよ」と言ったが

あの時の私は“俺が選挙にでも出る気持ちがあるなら

売名行為かもしれないが、何の利益も考えていないのに、

そんな事をよく言うなと多少腹が立った“

 

その時は、私の私財で行っていたので、1年で挫折してしまった。

 

奴は「お前ね、自分を買い被って居たのだよ、あの頃は」

「自分の頭の蠅も追えないのに、ボランティアなんて考える事態が

間違っていたと思うよ、だから1年間で挫折したのではないか

俺からすると、自分を分かった人がやるなら分かるけど」

と私の顔を覗き込んで言いやがる。

 

私は奴の目を見ながら、言い返したいが、言葉が出なかった。

 

奴はたたみ掛けるように、「その後に海外にボランティアとして

行ったよな、だけど、あれは自分に、いきずまったかららだよな」

 

私は「確かに、いきずまった部分があった、大手ゼネコンで

契約社員として働いていて、通産省関連で良いシステム計画に

助成金を出す案件が来て、私の計画案が通った、1年、1億で

3年間で作る環境システムだったのだ」

 

奴が「なぜに、そのシステム構築できなかったのだ」

 

「それがクダラナイ事で上と揉めてね、あの事は思い出したくもないね」

と私が言うと

 

奴は「聞きたいね、どうせ、お前の性格だから上に文句を言ったのだろう」

 

私はムッとした顔をして「違う、俺は、あのシステムを自分の最後の

大きな仕事にしたかったのだ、だから気合も入っていた」

 

奴は「それなら何故、駄目になったのだよ」とたたみ掛けて言って来た。

 

私は「あまりにも、くだらないので話したくないな」と答えると

 

奴は「どうせ、お前が、語拓を並べたからなのだろう」と言って来た。

 

私は「語拓だと、違うよ、本当にくだらない事なのだ」と

奴の言葉にイラついて来た。

 

「それなら理由を言えよ、くだらないかは俺が判断してやるから」と

ぬかしやがるので、私は、その事を言いだした。

 

これは私の欠点であるが、相手に挑発されると乗っかってしまう。

(37)

変な奴2-3

火曜日, 4月 29th, 2014

私は奴に心を見透かされるのが嫌なので、自分から

話しかけないようにしていたら、

 

奴が「そう言えば、最近はボランティアに嵌って居るのだって

どう考えても、お前がボランティアされる立場だよな」と

せせら笑いながら私に言うのである。

 

私はムッとした顔をして、奴を睨むと

 

奴は「お前ね、自分が分かっていないでボランティアは無いだろ、

お前はボランティアに関して、考え違いをしているのではないか」

 

続けて奴はこう言った。

「俺ね、ボランティアを辞書で引いたら“自発的にある活動に参加する人。

特に,社会事業活動に無報酬で参加する人。篤志奉仕家。 「 -活動」“と

書いてあったよ」

「確かにお前は自発的の部分は、俺も認めるが、金も無い奴が

ボランティアしていますなんていえるのかな~、俺なら恥ずかしくて

言えないけど」と何時もの嫌味口調で言いやがる。

 

私は「そうかもしれないが、お金の問題ではないだろうと思うよ

気持ちの問題だと思うのだ、人はそれぞれの経験から、それなりに

優しさや労わりの心を学んで来ただろう、それを生かす事は大切だと

思うのだけど」と私は素直な気持ちで言った。

 

そうすると奴は「お前ね、それは考え方によっては押しつけであり、

お節介でもある部分もあると思うよ、人はそれぞれ違った考え方を

持っているのだから」

 

私は負けずに「人間それぞれ違うのでは、性格も違えば育った

環境も違うから思いも、違うのだよ」

 

奴は「それぞれ違うから、そこが難しい所だと思うよ」

「お前だって最初からボランティアなんてしようと考えたか?」

「自分なりの経験から、その方向に向かって行ったのだろう」

「確かに、お前が30代後半で車いすの人にボランティアで

PCを教えたのが始まりだったな」

 

「うん、あの時は専門学校で教えていたが、自分の故郷に帰って

車いすの人たちなら、動かないで仕事をする事が出来るから

PCは良いと思ったのと、自分なりにお金も持っていたからね」

「だから母の故郷でもあり、自分の生まれた所でもある函館で

ボランティアで教えようと思ったのだよ」

 

(120)

変な奴2-2

月曜日, 4月 28th, 2014

奴が「最近は調子がどうだ?」と上目使いで言う。

 

私は「普通だな、良い事もないし、これと言って悪い事もない

普通に暮らしているだけで、お金が無いのが悲しいけど」

と奴を軽視して言う。

 

奴は「お金は、お前は最初から無いのではないか、金儲けが出来ない

性格だからな」と言って来た。

 

私は確かに、お金に縁がない。

コンピュータが使われ出した頃からシステムをやっていたが、

当初は忙しくて、残業が月250時間という状態であり、

給料は高かった。

 

だが、その反動で、お金の使い方も派手になった。

家庭を持っていたので休みの時は家庭サービスで豪勢に遊んだ。

性格として貯めるという事が出来ない。

 

奴が「お前は、仕事は出来たが、お金に疎い性格だよな、

誰に似たんのだ」

 

「そうだな、母か父だろうな、どちらも金には縁のない人だったからな

母は良い処のお嬢さんだったし、父も網元に家に

生まれて派手な人だったから」私は、ため息をつきながら答えた。

 

奴は「お前は可哀そうな奴だよな、金に関しては稼げたくせに、

貯められなかった、それで今も貧乏暮らしか」とせせら笑いで言う。

 

それに対して私は何も言えないのである。

 

奴は「あ~あ、貧乏人とは付き合いたくないよな、でも、お前とは

切っても切れない縁だし、俺も付き合う奴を間違ったよ」と

ほざきやがるのである。

 

私は、この時とばかりに「俺も同じだよ、お前が貧乏神なのではないか」

強い口調で言うと、

 

奴は「待て、お前ね、自分の性格を俺のせいにするなよ

今までいくらでも、貯められただろう、それをしなかったのはお前だよ、

あれだけ稼いでいて使ってしまいやがった。

あれば、あるだけ使って計画性が無かったのだよ、お前は」

 

奴の言うとおりなのである、反論できなかった。

奴の行っている事は正しい、私は全盛期の頃は人の3倍近く稼いだ

今から34年前で月100万は稼いでいた。

その頃はコンピュータの絶頂期であり、大手がシステム開発に

躍起になっていたし、人材も少なかったので仕事が出来る奴には

どんどん仕事が回って来た。

 

私も全盛期で色んな会社から「入社しないか」と声が掛かっていたが

一匹狼で自分の好きなようにやっていたのである。

仕事にも自信があったし、油の乗っている時期で生意気盛りであった。

それを知っている彼には弁解できない自分が居た。

 

私は歩きながら“こいつ、また嫌味を言いに来たのか”と思いながら

奴と肩を並べながら歩いていた。

(111)

変な奴2-1

日曜日, 4月 27th, 2014

最近また奴と会ってしまった。

私は気が付かなかった振りをして、通り過ぎようとしたのである。

 

そうすると奴が声を掛けて来た「久しぶり、知らんふりはないだろ

俺を嫌いなのか?」と言う。

 

私は「お前か、考え事をしていたので気が付かなかった」と言って

誤魔化したのである。

 

本当は気が付いていたのであるが、また嫌味を言われるのが嫌だったから

気が付かないふりをして通り過ぎようとしたのである。

 

奴は「本当か?俺に何か言われると思って、知らんふりをしたのだろう、

俺と思えは親友じゃないか、つれないぜ」と薄笑いを浮かべながら

こちらを向いて言うのである。

 

私は「親友?俺にはストーカーにしか見えないけど」と言い返すと

奴は「おい、おい俺を犯罪者扱いするなよ、俺はお前とは切っても

切れない親友だと思っているのだぞ」と言いやがる。

 

私は「お前は俺の事を全部を知っているストーカーだよ、親友じゃない」

と強い口調で言うと。

「待て、俺がストーカーなら、犯罪者扱いされないストーカーだな、

お前は俺をストーカー扱いするが、困った時などは相談するじゃないか

それでもストーカーと呼ぶのか、それは自分勝手すぎないか?

お前は相変わらず変わっていないな」

と何時ものごとく嫌味が始まる。

 

確かに奴の言う事は、もっともなので私は言い返せない。

 

奴の顔を見ないように「今日は俺に用事か?」と言うだけである。

 

奴は「お前と俺は一心同体なのだから、用事かは無いだろう」

「いつものごとく、君と付き合うよ」と

私の顔を覗き込むようにして言うが、

 

私は顔をそらしながら「付き合いたくないな」と

小声で呟くと

 

奴が「何か言ったか、今の言葉は聞き捨てならないな」と

横柄な口調で言い返して来た。

 

私は「分かった歩きながら話そう」と、はぐらかして答える。

 

私は内心、こいつ、また何かを感じて言うのだろうと思いながら

奴と一緒に歩き出した。

(31)

新たなる第一歩へ3

土曜日, 4月 26th, 2014

中途半端が嫌いな私は、やり出したら止まらない。

嫌な性格である(自分でも思う)

 

それから構築まで、こぎつけたが、約8カ月掛かった。

はっきり言って、このシステムは私が帰国したら

どうなるか自信が無かった。

 

内部体制が難しい、システムは人で動くものである。

人材を育てるか、良き人材がいるかによってシステムは

稼働するし、生きるのである。

 

どんな良いシステムを作り上げても、良き人材がいなければ

ただの構築物であり、死んでしまう。

 

余談は、ここまでにして被災地で私が考えたのは高校生に

このeラーニングシステムを構築して都会と同じ教育環境を

作り上げ、勉強して貰いたいと思った。

 

私自身、構築して来た経験を生かして、若者を育てる事に

私の経験を生かしたいと思ったのである。

 

そこには自分なりの経験(貧しかったから勉強したくても

思うように勉強できなかった)もあったからなのである。

 

また私自身、短大や専門学校で教えた経験もあったので

人を育てる大切さも多少は分かっている。

 

そこで目を付けたのは情報科のある高校である。

何とかコンタクトを取ろうとして、ボランティアに行くごとに

周りに頼んだりしていた。

 

そんな事で町長に話を持って行く事が出来たのであるが

残念ながら公立であり、県が管理しているのであるから

町では何とも言えないと言われてしまった。

 

私は本来、お役人(行政)が嫌いなタイプである。

ドミニカ共和国でODAの計画案を作成して提案が通った時

外務省から計画金額などの調査に、役人が来た時もそうであるが

お役人ヅラして、夜の接待をほのめかしたりする。

 

私は、そんな連中を日本で多く見て来たので、彼らに対しては

嫌悪感をかんじてしまう。

 

だから、今回県庁に話を通さなければならないとなると

私の性格では問題があると自分自身で感じた。

 

だがやりたい。

だから違う方法か、私が前面に出なければ良いのであるから

計画案を作成して、その人に行動を起こして貰おうと考えている。

 

私は歳なのだから前面に出る必要もないし、良いと考えてくれる人が

やれば良しで、若者が育って復興に尽力できる力を付ければ良いのである。

 

これは私たちが戦後の復興で培って来た事を、

次の世代に伝えて行く義務があるし、被災を経験した若者が

それを生かす事に微力ながら手伝えれば良いと思っている。

 

高齢者問題より、こちらの方が受け入れてくれる事が早いであろう。

だが高齢者に対しても、何か方法を変えて挑戦したい。

 

生きてる限り挑戦が、私の信条である。

私は生意気な人間なのであろう(他人から見て)

 

でも、これが老いを感じさせない秘訣でもある。

私は10歳以上、若く見られます(自慢・・・)

 

(122)

新たなる第一歩へ3

金曜日, 4月 25th, 2014

そこには若者を育てる事が重要である。

私は、ある機関で、アルゼンチンでeラーニングの構築を行った。

それは資金も無く、人材も居ない状態であった。

そこで無償で使えるeラーニングシステムを探し出した。

 

それは全世界で使われているシステムで、

非営利なら使えるシステムである。

日本でも多くの大学が使っている。

 

これなら資金を掛けなくてシステムが構築できると思った。

この派遣は前任と、その前の前任者と合わせて4年間赴任していたが

内部はシステム構築など出来ない体制であった。

 

前者たちはシステムエンジニアとして赴任していたが

内部は、PC管理は個人が操作する状態であり、

自分なりのデーター管理体制しか出来ていない、

私は長い間システム構築を手がけて来たので、

これでは構築できないと判断して、その旨を伝えた。

 

だがアルゼンチンに来て何もしないで

帰るのも問題と感じてしまった自分がいたのである。

それはボランティアとは言え、日本の人たちが払った

税金で来たのであるから(日当2、350円)

 

悲しいかな自分の性格は来た以上、やるだけの事はやりたい。

この仕事は、はっきり言って尻拭いであり、

アルゼンチン事務所が、どうにもならなくて要請したようだ。

 

内部体制から整え、eラーニング構築まで10カ月で行う。

資金もなく、人材も居ない状態で、どの様にすれば良いのか

当初は迷った。

 

だが迷っていても解決しないので、遣る事にした。

 

初めはMicrosoft関係で構築を考えたが、内部の人材では

構築後の操作や管理が出来ない。

アプリのソフトを買うにも資金が無い。

 

こんな事を繰り返しながら、私は派遣先と部屋での葛藤が

始まった。

アルゼンチンは日本との時差が13時間ある。

だから部屋に帰っても寝る暇が無い状態である。

 

最初の頃は時差ボケで問題は無かったが、時が過ぎると

疲れが出てくる。

60歳を超えた自分には辛い部分はあった。

 

 

(123)

新たなる第一歩へ2

木曜日, 4月 24th, 2014

新たなる自分を考えるなどと、生意気な事を書いたが

この性格はもう治らないであろう。

 

今回もそうであるが、被災地でのボランティアでも考えたのであるが

最初の頃は被災者の支援を行っていたが、復興を考えた時に

被災地の高齢化では、復興は時間が掛かる。

 

そうなれば復興の為に地元の若者を育てる事が

重要だと考えたのである。

 

将来的に見ても、高齢者では復興に限度がある。

長い目で見て行かなければ、復興は成り立たないであろうと

自分勝手に考えて、行動を起こそうとした。

 

それは地元の高校生を育てて、復興の新たな

担い手と思ったからである。

 

私たちが復興と言っても、それは被災地の外からしか

見ていないのである。

それも大切であるが、地元を立て直すのは、

そこに住んでいる人たちが一番重要な役割を担う。

 

だが高齢化が進んでいる被災地では限度がある。

 

私は考えて地元の高校生を育て、復興に力に

成れば良いのでないかと思ったのである。

 

それは、あの災害を知っているし、災害前の自分たちの

町も分かっている。

どちらも分かっていると言う事は、自分たちが

経験して来ているのである。

 

私の考え方は経験している事によって、新たな事を考える事が

出来ると信じているし、そこには私たち部外者(ボランティア)とは

思いが違っている。

私たちは、あくまでも映像でしか見ていないし、恐怖感も味わっていない。

 

それは第三者目線で見ているにしか過ぎないのである。

それも重要な面もあるが、自分たちは経験していないから

あくまでも優しさでしかないし、人間の脳裏から消えさる率は

早いと思う。

 

だが、経験している人たちは自分の脳裏から一生消え去らないだろう。

この差は大きい。

 

私たちは第三者目線でしか見ていない。

これには、大きな違いがあると思う。

経験したて苦労したのと、経験なしで伝え聞いたのとの違いである。

 

私は、復興は地元住民の力が必要であり、将来的な面も考えて

計画するべきであると思っている。

 

続きは明日に・・・。

 

(116)

新たなる第一歩へ

水曜日, 4月 23rd, 2014

前に書いた、高齢化に関して、自分なりに動いてみました。

 

だが結果は、自分の期待する部分がなかったし

失望してしまった自分が居ます。

 

ただ、ここで終わっては自分の考えが甘かったと思い

再度、違う方向から考えて行きたいと思っています。

 

まず失望は高齢化している方が、諦めが先に立っている事です。

これは日本人特有なのかもしれませんが、

出来ないだろう、やってもしょうがない、

やって失敗すれば周りから何を言われるかわからない、

皆がやっている事をやれば、何も言われないし、

もめ事も起きない等、色々な面を垣間見ました。

 

これは、今までも感じていましたが、寄らば大樹の陰、

皆で渡れば怖くない、出る釘は打たれる。

日本人特有の考え方(これは私だけが思っているのかもしれません)

これが先行して、新たな事に挑戦しようとしません。

 

新たな事が出てくると、それに対して疑心暗鬼を起こす傾向が

強く感じました。

 

色々な人と話しましたが、周りは乗らないでしょう。

もし実行しても、貴方が利益を得る為とか、あまり良い事は

言われないかもしれませんよと忠告もされたりもしました。

 

確かに新たな事をやろうとすると、今までも、このような問題は起きて来た。

それが日本社会の構想であったし、人間社会の仕組みなのかもしれない。

 

だが、踏み出さない限り進歩は無いという考え方の私には

無性に腹が立つ。

 

それで企業に居た時も同じで、上と、ぶつかり幾度も喧嘩をしたのであるが

懲りない自分は、考え方を変える気は無いのである。

 

今回は団地の高齢化に対して、互いに見守りを行いたいし

足腰の弱った方に重い食料などの配達作業を軽減させたい

と思ったのである。

 

これは日本人の主食であるコメは、誰しもが食べるものである。

注文を取りながら見守りを行い、人とのコミューケーションを

作り上げて行く事、次に主食のコメを被災地から宅配で送って貰う。

 

コメは毎日食べるものであるから、必要であるし重いから大変である。

それを、ある程度の量を注文する事によって、価格を下げて貰う事を

行って、東北の被災地のJAか農家との契約をするシステムを考えた。

 

だが、これは幾人から意見を聞いたが「必要ないのでは」

今で充分であるという意見が多数であった。

 

確かに現状では必要ないが、これから進む高齢化を考えると

やって置くべき事と考えたが、幾人かと意見が噛み合わなかった。

 

皆さんの考え方は、現在動いているから良いのだ。

無理に新しい事をやらなくても、今さえ良ければ無駄な力を

使いたくない。

 

これが日本の現状なのかもしれないが、私は小さくても良いから

挑戦して角度を変えながら、別な方法で高齢化に挑戦して行きたい。

 

そのためには、高齢者の考え方を変えなければならないが

これが最大の難関であろう。

 

前に書いたが、「日本人と政治」の封建的民主主義の精神が

染み付いてしまっているのを感じた。

 

高齢者が、この考え方で選挙に投票する限り、日本の政治は

変わらないであろう。

 

投票率が高いのは高齢者であるから、

高齢者の方は、「私たちの行く先は決まっている。

だから無駄な事はしたくない」

 

これは私自身も高齢者であるから分かるが、次の世代の事を

考えるべきであると思う。

(136)

田舎者の私3

火曜日, 4月 22nd, 2014

田舎者の意味は、大辞林で調べた結果 [1]田舎の人。田舎育ちの人。 [2]礼儀作法を知らず、やぼで気の利かない人を ののしっていう語。また、自分をへりくだっていう語。

 

1.は当てはまるのです、前にも書きましたが、 私は北海道の函館生まれで、子供の頃に育ったのが 夕張でしたから該当します。

 

さて、問題は2.の意味ですが、二番目のへりくだった部分は 年齢と供に多少出てきたかと、自負している部分がありますが、 礼儀作法を知らず、やぼで気の利かない人は

自分では、あまり該当していないと思っているのです。

 

ただ、この思い込みは自分で思っているだけですから、 他人から見ると、どうなのかは分かりません。

 

私の父は特に礼儀作法には、うるさい人で幾度も 叱られた経験があ。ります。 その頃は何でこんなに叱られるのかと思うくらい、 小さな事でも叱られていました。

 

他の家では、そんな事で叱りもしない事でも 父は叱り拳固が飛んでくるのです。

 

寝る前には「おやすみなさい」は当たり前で、

それも正座して、手を前に揃えて、頭を下げるのが日課でした。

 

そんな事で、礼儀作法や気の利かない人間に 育たなかったのですが、どうも私は田舎者の意味を違って 理解していた部分があったように思います。

 

私は、田舎者とは素朴で人の好い、話好きなイメージを 浮かべていたのです。

 

私が出会った田舎の人たちは、そんな感じの人が 多かったのです。

 

そんな事で、私は自分のイメージで田舎者を作り上げて いたのですが、私はそれで良いのだと思っています。

 

すなわち、私は田舎の風景と、そこに住む人たちを 一緒にして田舎者として、自分の中で作りあげていたのです。

 

そんな私は「野暮で気の利かない人」なのかも知れません。

 

そうであれば、2.の一番目も該当するのかもしれません。

 

そんな事で、私はある程度長く生きて来ましたが、 まだまだ、自分は分からない事が沢山ある事に気づかされます。 これからもっと勉強して行かなければならないと思っている

歳取った田舎者の私です。

 

 

(47)

田舎者の私2

月曜日, 4月 21st, 2014

田舎シリーズと言えば、「寅さん」の映画がある。 あれも、ほとんどが地方である。

 

あまり、田舎とは言えない地方都市もあったが、 東京人の寅さんが地方で触れ合う人との物語が、 日本人には受けたのではないかと思うのである。

 

私も一時期、目が小さいので「寅さん」に似ていると 言われた事がある。

 

私は、そう言われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。

 

それは若かった事もあり、「寅さん」は、愛嬌は有るが、 いい男ではないと思っていたから、そんなのと一緒に されるのが侮辱に感じていたのである。

 

だが、最近は自分から「寅さん」に似ていると、書いたり、 言ったりしているのである。

 

それは歳をとる事によって、あの人間的魅力が、 たまらなく好きだからなのである。

 

また、あのフウテンで気楽さも魅力であるし、あのように 出来たら人間として、どんなに楽だろうと思えるのである。

 

また、人間として「寅さん」は東京生まれであるが、 気取らない所に単純な所が、田舎臭さを感じてしまい 田舎の人達は、同類を感じて慣れ親しんでいるのであろう。

 

そこには、都会に住む人達の見栄や損得感情が無く、 人間の素直さが出ているから、良いのであろうと思える。

 

私が若い頃、帰郷したりした時は、都会に住んでいる事を 自分の優越感と感じて、友達や親類に話していた事を思い出し、 鼻持ちならない自分だった事を思い出す。

 

その考え方が、田舎者なのであると、今は思うが、 その頃は都会と田舎の格差が、大きかった為に 都会に出たと言う優越感が、生まれ出たのであろう。

 

東京と言え、地方からの人達の集まり、みたいな所で あるから寅さんの田舎臭さが、自分たちの 故郷での生活の中での人間との触れ合いを 思い出すので人気が有るのだろうと思う。

 

私もそんな魅力的な人間になって見たいと思っている。 人間の魅力は、どこで出て来るか判らないので、 日々努力したい。

 

 

(203)

田舎者の私1

日曜日, 4月 20th, 2014

私は東京に出てきた頃に、田舎者丸出しの事をやった事がある。

 

それは紅茶であった、私の子供の頃、実家で喫茶店を 営んでいた事があり、コーヒーや紅茶等を出していたのであるが、

 

その頃は、私が小学校に上がる前の事であったので、 メーカーなどは、おぼろげに覚えていた記憶があったのである。

 

喫茶店は夕張と言う炭鉱の田舎町で、戦後4~5年くらいの頃に 開いていたので、田舎町ではハイカラであったのだと思う。

 

父は東京の大学を出ていて、お洒落な人であったし ダンディであった。

 

私からするとキザだと思う所あったが、あんな気の荒い 田舎町で喫茶店を開いて、珍しさも手伝って 繁盛していたのであるから、面白いものである。

 

そんな事で私の家では朝食は、パンとコーヒーか紅茶であった。

 

子供の私達にはコーヒーは苦くて嫌だったので、 紅茶を好んで飲んだのである。

 

私は父から紅茶のメーカー等を聞かされていて、 香りや味を父の講釈で覚えていたのである。

 

東京に出て来た私は、友達とある高級な (私達からすると高級であるが) ホテルのラウンジで友達と、お茶を飲もうと言う事になって、 恐る恐る入って行ったのである。

 

友達はコーヒーを、私はコーヒーが苦手だったので 紅茶を頼む事にしてウエィターを呼び「コーヒーと紅茶」と 頼んだのである。

 

ウェーターは「紅茶は何になさいますか?」と問われたので 私は「日東紅茶」と答えたのである。

 

その時の、ウエィターの顔は、「えっ」と怪訝な顔をして 「日東紅茶ですか?」と言って、軽蔑したような言い方を するのである。

 

友達は、友達で笑いを堪えて、俺とお前は他人だという顔をして そっぽを向いているのである。

 

私はそれでも「そう日東紅茶」と言っていたら、ウエィターは 「紅茶の種類なのですが・・・・」と言うのである。 私は意味が分からず「何でもよいから紅茶を持って来て」と 答えて、その場を切り抜けたのであるが、

 

セイロンやダ~ジィリン、アッサム等と言う、

紅茶の種類など分からなかったのである。

 

私にとっては、田舎者丸出しの屈辱的なことであった。 思えば家では紅茶を缶で買っていて、ポットで入れて 飲んでいたのであるが、小さい私は種類など 分からなかったのである。

 

分かっていたのは、リプトンと日東紅茶のメーカー名で、 私は香りの強い、日東紅茶が好きであった。

 

その印象が強かったのか、それが言葉として 出てしまったのである。

 

そんな事があった私は自分が恥ずかしく、 また、田舎者である事を感じて、それからは 紅茶専門の喫茶店に行って、紅茶の種類の名前を 覚えていったのである。

 

その時の気持ちは、恥ずかしさと、自分の無知さ、 場所をわきまえない田舎者であった屈辱感しかなかった。 今だから笑い話で済むが、あの頃は友達には、 馬鹿にされるし、田舎者と思われた悔しさは、 若い自分に取っては辛いものであった。

 

それが紅茶専門店に通わせたのである。

 

今では紅茶に関しては、どのように入れ、 どのようにして飲むのか覚える事が出来たが、 これがまた、現在は何の役にも立たなかったのである。

 

私は外国で、ある程度の高級レストランに行って、 紅茶を頼んだ事が幾度かあったが、出て来たのは テェーパックなのである。

 

私は名の通ったレストランなのに、 テェーパックはないだろうと思った。 ところが別の有名レストランに行っても、 同じなのである。

 

田舎者の私が恥を掻いて覚えた事は、何であったのだろうと 思ってしまった。

 

むしろ、こんな時は「日東紅茶」と大きな声で 注文したい心境であった。

 

(127)

変な奴8

金曜日, 4月 18th, 2014

不思議なもので、男たちと遊んでいると自然に女性も増えて来て その中で私も鼻の下を伸ばしていた部分があった。

 

『待てよ、お前は、そこで犯罪的行為を行ったのでは?』 『犯罪、人聞きの悪い事を言うなよ』 『だって、お前の二回目の奥さんは教え子だったろう』 『確かに、だけど彼女が卒業してから結婚したよ』 『でも、卒業近くから付き合っていたのだろうが』 『確かに、付き合っていたが、俺は先生という立場は崩さなかった、 だから、前にも書いたが、「ずるい」と言われたのだよ』

 

私は『お前ね、人の過去を穿り返して楽しいか?』と 嫌な顔をすると、彼は誇らしげな顔をして 『罪は罪、その罪が今のお前に償いさせているんだよ』と 高笑いをしながら言うのである。

 

私は彼を睨み付けながら『他人のスキャンダルは楽しいものなの、 何とでも言えよ、好き勝手に』と不貞腐れて言うと 『そうか、じゃお前が相手の親の所に頭を下げに言った時は 俺は笑っちゃったよ』

 

確かに、あの時は相手の親の顔を見る事が出来なかった。 私は下すら畳に頭を擦り付けて、『お願いします』を 連発していたのである。 彼はその事を言っているのである。

 

彼は『お前は、あの時一度で許されなかったよな、あの後 何回行ったのだ、許される為に』 『何回だったかな、四、五回かな』 『でも、最終的に許されたのだよな、汚い手を使って』 『汚い手、そんなの使ってないよ、既成事実はあったが』 『それが汚い手なんだよ、出来ちゃった婚の始まりかな?』 『うるさいな、お前に言われたくないよ』 と私は叫んでしまった。

 

彼は嵩にきて『お前は、ただの助平親父だよ』 それを言われた、私は返答する事が出来なかった。

 

続けて彼は『どうも、お前は若い子と付き合いが多いように 思うのだが・・・・』 『確かに俺は若い子との付き合いが多いな、俺自体の性格が 餓鬼なのかも知れないから、若い奴と会うのかもしれない』 『それは、それで良いのでは、だからお前は騙され易いのだな』 『確かに騙され易いかも、言うなれば単純なのだよ、俺は、 でもお前は俺の事を、ああでもない、こうでもないと 言い過ぎるのでは?』

 

『確かに言い過ぎるが、お前と俺とは一心同体だから言えるのだよ』 『確かに俺が迷った時など、お前が色々アドバイスしてくれるよな、 それで迷いが解ける事もあるし、泥沼にはまり込む事も、 おおいにしてあるよ、お前は、影の私なのだから、もう少し 俺を助ける事を言ってくれなきゃ駄目だよ、人の揚げ足を 取るのではなくて、俺の悩みを解決する助力をお願いするよ』 と私は彼に言うが、彼と私は切っても切れない友達なのである。

 

彼は時には私と反対の事を言い、私を悩ませたりして、 私を何時も見つめているのである。 私も、もう一人の自分を見ながら、彼とは、ある時は喧嘩をし また、ある時は、仲良く妥協しながら、付き合ってきたのである。

 

変な奴は、私の分身でもあり、私のそのままの姿でもある。

 

そんな事で、彼は私の行動を全部知っている、今までの自分の 取ってきた行動は、彼は冷静に見たり、嗾けたりしながら 私の心の中を見透かして、反省させたりして来たのである。

 

そんな事で私とは切っても切れない『変な奴』なのである。 (変な奴1 完)

 

(119)

変な奴7

木曜日, 4月 17th, 2014

私自体が悪さもして来たし、非常識な事もして来たが、 その中で経験して来た事を、生かして来たと言う自負もあり また、仕事に対しての自信もあったので強気な自分を出せた。 そんな私であったが、どうも彼は私を冷静な目で見ているようだ。

 

私の性格は、どちらかと言えば大雑把な所があり、多少は物事に 拘るが、最後の段階になると、成るように成れと居直るのである。

 

そんな性格だから、細かい事を一々言う奴が嫌いで、そんな奴を 見ると腹が立ってくるのであるが、彼はそんな私の事など 意に介せず話し掛けて来る。

 

私は『専門学校は社会に出る、一歩手前の教育であるから、 彼達が社会に出た時に、混乱しないように教える事が 必要だと思っていたし混乱した場合の対処の仕方も 教えたつもりだよ、それが社会人としての先輩の取るべき道だと 思っていたからね』

 

『でもね、お前は生徒達との飲み会の時に、自動車がぶつかって 壊れた自動販売機から、ジュースを生徒達と一緒に盗んだりしたり、 男子生徒に、お化粧をさせてオカマの格好をさせて 騒いだりしていたな、それが良識ある人のやる事か?』

 

『確かに、そんな事をさせたりしたよ、それも若さの中で発散する ひとつのエネルギーであり、若さの特権ではないのかな』 私は『私は授業に関しては厳しかった、ただ授業から離れると 彼達とは同等の目線で接したのだよ、ただし度を越した事は させなかった。 彼達も、そんな時は先生と思っていなかったと 思うよ、少々小うるさい先輩と思っていたのではないかな』

 

『確かに、彼達は飲み会が終わると、お前のアパートで 勝手に冷蔵庫の中やコーヒーを出したりして、寝ているお前を 無視した行動を取っていたな』

 

『そうだな、あいつらは俺を先生と思ってなかったかも? 俺も先生と思って付き合ってはいなかったが、 無駄な出費は多かったな』

 

私は義務教育が過ぎた若者が、次に学ぶ事は技術もそうであるが 社会の仕組みも学ぶべきであると思っていたし、それを教えるのは 私たち先輩の役目だと思っていた。

 

確かに彼達は甘えが、ある事は否めないが、その甘えを 受け入れながら社会人としての流れを教え、なおかつ青春を 謳歌するべきだと思っていたのである。 それに乗じて、私自身が出来なかった青春を 謳歌していた部分もあった。

そんな事で、彼達とは遊ぶ時は徹底して遊んだ。

 

 

(42)

変な奴6

水曜日, 4月 16th, 2014

さて、女性の話は私のボロが出るので、話を変えたのである。

 

奴は『お前は歳いく毎に、話をずらす事がうまくなったな』と 薄笑いを浮かべながら言ってきた。 私は(こいつ、また俺を虐めようとしているな)と感じた。

 

彼は『お前は、変なところに、融通がきかない奴だよな、 特に仕事に関してはそうだな』 『そんな事はないよ、若い頃は、生真面目すぎる傾向は、 あったが最近は少しよくなったのでは』と弁解がましく答えると 『いいや、お前は、のめり込むタイプで、仕事だけを考えて居るよ』 『いいや、そんな事ないよ、周りも考えて行動しているよ』と 私は反論する。

 

『でも、俺の見る限りでは、仕事に熱中し過ぎて、 融通の利かない所があり、それによって厳しい面が 出ているように思える』と真顔で言うのである。

 

確かに私は仕事に対して厳しい面が、ある事は分かっていた。 ただ、それは自分にも厳しくしている為に、 妥協を許さないのである。

 

若い頃は特に、その面が強く、それは他人から見ると厳しいと 感じたであろうと思うが、若さ故他人の事を考える 余裕がなかったのである。

 

仮に今、その事を言っても、彼には弁解としか取られないであろう。 私は今までの反省から、これからは私の仕事上での良い部分を 若い人達に伝える事を考えているのであるが、

 

そんな事を説明すると、 彼は『人に教える事の難しさを知らないのだよ、君は』 私は『私は先生をやって、少しは分かったと思っているよ』 と答えると『甘いね、教えるという事は、相手の性格を把握して、 さらに適正な部分を見ながら教えていかないと、 その人の為にはならないのだよ、ただ、単純に教える なら、馬鹿でもチョンでも出来るよ』とホザキやがるのである。

 

『お前、そんな偉そうな事を言っているが、 自分はそれが出来るのか?』 『俺は出来ないから、理屈を言えるのだよ、出来る位なら お前に教えてやるよ』 と口の減らない屁理屈を言うのである。 段々彼とのバトルが激しくなって来た。

 

確かに人に教える事は難しい事である。

 

私も若い時に、会社を設立して失敗した事があるが この失敗は、人を育てる事が出来なかった部分が大いにあった。 人に教えるより、自分でやった方が早いし、教えるだけの暇が なかったとも言える。

 

それは会社を立ち上げたばかりの時は、経済的に余裕がなく また、新規開発等で時間が取られ、自分を酷使しても やり遂げなければ、会社が成り立たない状態であるから どうする事も出来ないのであった。

 

また、会社が安定すると、今度は設備を増やし、その資金の 然執する為に、新規開発の繰り返しを行っていくのと 業務が技術系で新しい分野であった為に、簡単に教える事が 出来なかった部分があったのである。(弁解になったな・・・)

 

また、技術者の欠点で他人を教える事の 下手さがある事も否めない。 私はその為に専門学校・短大等で教えて、教えるという事が、 どのような事なのかを経験した。

 

だが、その時に教える楽しさを経験したのである。 そんな内容を彼に言うと、彼は『お前は、確かに生徒には人気が あったが、それはお前と生徒の精神状態が同等だったからだよ』 そう言われると、確かに彼達とは授業以外では 友達付合いであった。

 

私は『それは先生と言っても、彼達とは歳の離れた 人間の先輩なのだと思っていたからな、だから、 私は先生だと思っていなかったし、彼たちが社会に 飛び出した時に使える技術を教えたいと思っていたのだよ』

 

彼は『お前の授業は厳しいと言っていたよ、課題が終わるまで 帰られないし、新聞奨学生は夕刊を配達してから、学校に来て 課題をやっていた子もいたな、それまでしなくても よかったのでは』

 

『確かに厳しかったよ、でも社会に出たら、それが 当たり前なのだし、その厳しさが巣立った時に役に立つと 思ったのだよ』と答えると

 

『でもな、専門学校の生徒だぜ、まだ遊びたい盛りに、 それはないのでは?』 『いいや、高い授業料を払っている親の事を思うのと、 技術の難しさから言えば、厳しくしなければと思ったのだよ、 だが、授業が終わったら俺とあいつらとは 同等になって騒いだりしたな』

 

『そうだな、あいつらと教室で野球をやったり、 将棋をやったりしていたな、それに、地方からの子達が 多かったので彼達の部屋を月1回回って歩き食事会と言って、 ドンチャン騒ぎをやり、ビールなんて飲んでいたのを 俺は知っているぜ、不良先公だったな』

 

『確かに俺は、餓鬼の頃から悪かったから、多少の悪さはしたな でも、社会人の先輩としての常識範囲だと思っていた』と答えると

 

『そこが違うのだよ、常識の範囲とは、他人から見て判断する事で あり、自分個人が判断すると、批判も出て来ることが多いのさ』 『確かに自分での判断は、周りとの協調性を欠く事はあるが 私も、それなりに社会で経験して来ているので、非常識な事は しなかったつもりだよ』と強い口調で言ったのである。

 

 

 

 

(55)

変な奴5

火曜日, 4月 15th, 2014

だが私の負けず嫌いが出て反論する。 『それは、どんな女性でも男性でも異性を意識すると、 自意識過剰になるのでは?』 『確かにそうかも知れないが、過敏に感じる奴とじゃ まったく違うぞ』と彼は呆れた顔をして言うのである。

 

私は『お前はどうなのだ』と言うと、彼は『確かに意識すると 自意識過剰になるが、なるべく普通に接するよ』 私は『その人に意識が、強くなれば、なるほど自意識過剰になるのが、 当たり前でないのかな、それが恋だと思うよ』と反撃をすると、 『じゃお前は、そうなった時に どう対処しているのだ』、続けて『俺から見ると対処しないで 逃げ出しているように見えるぞ』と言って来たのである。

 

また『逃げ出す事を周りの女性は、純だなんて言って茶化す もんだから、お前は尚更、積極的に出られなくなってしまい 自分の気持ちを隠すようになっている、それは純なのではなく ただの臆病なのだよ』

 

そう言われ、私は(確かに男性として普通以上に 女性を意識している自分がいる事は判っている) これは男として当たり前の事であるし、恥ずかしい事では ないのだが周りを気にする私は、それをハッキリと 表現する事が出来ないのである。

 

私は二回目の奥さんに『あなたはズルイ』と言われた事がある。 彼女と付き合っている時に、自分の気持ちは、 相手を好きであるのだが、それを言い出す事が出来ず、 石橋を叩いて歩くように、相手の気持ちを確認に確認を重ね、 初めて言い出した事を言われたのである。

 

これは、私が相手から断られた時の、嫌な気持ちが怖いから 相手が本当に私に好意をもっている事を確認してから 行動を起すという臆病な所が私にある。 だから、相手が好意を持っていたとしても、慎重過ぎて チャンスを逃す事が多いのかも知れない。

 

私はこれ以上話をすると、自分を認める事が怖くなって 『判った、君の言う通りだよ、自意識過剰と認めるよ』と言って 話を終わらせたのである。

 

私はホームページの中で『海外珍滞在記』というのを 載せているがその中で滞在している間に、あの国の人たちが 軟派するのを羨ましく思った事がある。 それは、美しい物を見て「美しい」と言う言葉で表現出来る事が 私の今まで育って来た国では出来なかった。 (言葉と行動に移す行為の意味です)

 

それは出来なかったのではなく、そのような行動を起こすと 周りから変な目で見られると言う事と、ハシタナイと教育されて 来たからなのである。

 

私も男性であるから、美しい女性を見ると振り向きたいし 話して見たいと思う。

 

それを行動に移すと、「あいつは軟派男だとか、 あいつの頭の中は女しかない」とか言われて、 蔑まれたりするのである。

 

それが嫌で、そのような行動を起こさなかった。 だが、あちらの国の人達は、自分で感じた事を、 そのまま表現する。 それは人間として、自分に正直なのでないかと感じたのである。

 

誰しも、美しい物は、美しいと感じるのであるから それを表現する自由はあると思うのである。 だが、私の育った国は進歩する毎に秩序が生まれ、 人間としての本能を殺して行かなければならなくなった。

 

これは悪い事だとは思わないが、自分を殺しストレスの原因に なっているように思えるのである。

 

確かに自分の本能のままに行動を起して、 犯罪行為を行う事は、いけない事であるが、良識の範囲内での 本能の行動は、許されても良い部分があるように思うのである。

 

何事も限度を越えないで行動する事は、 許されるべき事であるが、人によっては判断基準が違ってくるので、 難しい部分もあるようだ。

 

私が最初に、あの国で見た時は、日本だったらセクハラと 騒がれるだろうと思ったが、この国では当たり前の事なのである。

 

また、あの国では声を掛けられる事によって、女性の美しさの バロメータになっている事を、女性自身が自覚しているのである。

 

話が脱線してしまったが、変な奴は私に取り付いて うるさい位である。

 

(46)

変な奴4

火曜日, 4月 15th, 2014

だが、彼も負けてはいない。 『お前は女性に自信があるのか?』

 

私は痛い所を衝かれ『俺が一番判らないのは女性だな、 判らないから二度も離婚したのだろうな、 この歳になっても判らない』と答えると、

 

彼は、この時とばかりに『そうだろう、お前は俺の事を 色々と言うけど、理解していないのだよ、女性を』と言ってきた。

 

私は『でも、男性で女性の心理を本当に理解している奴はいるのかな?』 彼は「居るだろう、多くは居ないが、それなりに理解して 上手くやっている人はいると思うよ」

 

私は『だけど女性を理解出来るなら、離婚は、 こんなに多くないのでは?』 『そうだよな、どうも離婚は、女性が言い出す事が 多いみたいだからな』と彼が答えて、続けて 『お前は二回も離婚したのだから判るだろう』と問うのである。

 

私は『俺の場合は、多少違った部分があったから、該当しないかも、 それに古傷には、あまり触られたくないな』と嫌な顔をすると

 

彼は『でも事実だからな、ただ、俺から見ると、お前の好き勝手で 破綻したように思うけどな』 『確かに、俺が何かに逃げていたからだろうな、あれが無かったら 俺も変わっていたかも知れないな』と答えた。

 

(あれとは、幾度か書いた事がある、彼女の死である。) 続けて彼は『俺から見ると、お前は女性に惚れ易いタイプだな、 何か勘違いしているような気もしないでもないが』 『えっ、どんな事』 『お前は女性から優しくされると、自分に気があるのではないかと 考えるだろう、それを勘違いして、意識して行動がギクシャク している部分が見受けられるのだよな、言うなれば 自意識過剰なのだよ』、私は痛い所を衝かれて、反論出来なかった。

 

さらに彼は『どうも、お前は女性を、何か間違った見方を しているような気がする、上手くは言えないが、 母親と彼女の死によって、女性を美化しているのではないか、 女性も男性も人間なのだから、同じに見なければならないのを 美化すると、そこには自分の気持ちを正直に出せない事になる、 それがギクシャクする原因でもあるかも』と 説教じみた事を言うのである。

 

彼の言う事が合っているだけに、私は反論できなかった。 確かに私は、自分でも自意識過剰な部分があると思っている。 これは彼の言う通りに、母と彼女の死が原因であると思う。 どちらも愛する人であった事が、私の思い出を美化していると 言えるのである。

 

(46)

変な奴3

月曜日, 4月 14th, 2014

彼は「馬鹿言え、二回も離婚して、自分がもてていると 思っているのか、相手が愛想をつかしただけなのだよ」 とやり返してくる。

 

負けず嫌いの私は「最初の奥さんは、生まれ変わったら、 一緒に成りたいと手紙をくれたよ、それだけ愛されていたのだよ」 と反論すると、「お前ね、自分を判っていないね、 それは彼女の母性本能で、労わりの気持ちで 言っているだけなのだよ、お前は甘いよ」と 私を哀れむように言うのである。

 

私は痛い所を突かれている事が、判っているのであるが、 それを認めると自分が負けてしまうので、認めたくない。

 

「君よりは俺の方がましかもね、持てない男の僻みだ、 負け犬の遠吠えだな」と強がりを言ってしまうのである。

 

そうすると「自分自身を判る奴はいないよ、他人との共存で 世の中成り立っているのだから、自分の物差しで、物事を 決め付けるのは良くないよ」と言ってきた。

 

私は、話が変な方向に行ってしまっているように思い、 「あれ、話の主軸が方向違いに進んでないか?」と言うと 「いいや、お前は自分本位な考えで、言っているから、 注意しただけ」と、いとも簡単に答えるのである。

 

再度、私は「君の好みは判ったが、そんな女性に会って 声を掛けた事があるのか?」の質問に、

彼は「俺は女性に声を掛けるのが苦手だし、

自分は女性の前に出ると萎縮してしまうのだよ」と

先ほどの威勢の良い勢いが、無くなっていたのである。

 

私は、今だと思い「気が小さいな、ノミの心臓か、 それじゃもてないな」と嵩にかかって言ってやるのである。

 

彼は「そうなのだよな、俺が中学の頃から、女子が道路で 屯していると、そこを避けて回り道をした事が幾度も有ったのだよ、 それだけ純だったのだよ、俺は」とホザクのである。

 

私は「馬鹿だね、純じゃ無くて、意識し過ぎているからなのだろう ただのマセている餓鬼じゃないか」と高飛車に言うと 彼は意気消沈してしまうのである。

 

(94)

変な奴2

月曜日, 4月 14th, 2014

さて、この変な奴であるが、私から見ると本当に 劣等感の塊みたいな奴なのである。 私が「君は恋愛をした事があるのか?」と問うと 「あるよ、馬鹿にするなよ、何ぼ持てないと言っても 俺に惚れる奴がいるのだぜ」と私を睨みながら言うのである。 私は「物好きも居るのだな、その人はボランティアで 君に惚れたように見せたのではないか?」と 馬鹿にしたように言うと、彼は「お前ね、人に対して、 そんな言い方は無いだろう」と拳を握り、 顔を真っ赤にして言い返してきたのである。 「悪かった、ちょっと言い過ぎかな、悪気は無かったのだよ」と 私が言うと、「お前だって自分を見た事があるのか、 そんな顔をしている奴に、俺は言われたくないよ、

自分の事を分かって言っているなら許してやるが、

分からないで言うのは失礼だぜ」と反発して来たのである。 確かに私も彼と変わらないようだとは思っている。 だが人は誰かに優越感を持たなければ、自分が惨めに 感じるものだと私は思っていたので、彼にそのような事を 言って優越感を感じていたのである。 私は元来、口が悪い方なのである。 それは人見知りが激しい方なので、自分の気持ちを相手に 上手く表現できない為に、わざと口が悪いように話す傾向が あるのである。 話は逸れてしまったが、彼とは女性に関する話も良くする。 私が「君の好みの女性は?」と質問すると、 「そうだな、俺は第一に気持ちだな、第二に容貌かな」と答えて 「そう言えば、お前の別れた奥さん、二人とも、 まあまあ美人だったな」と言い出したのである。 私は「お前ね、俺が質問しているのに、俺の過去などを 穿り返さなくていいのだよ」と言うと、 彼は「だけど美女と野獣だったよな、 俺からすると、彼女達が何故、こんな奴に くっ付いたのか思ったよ」と薄笑いを浮かべて言うのである。

私は悔しくて「お前、自分で、もてないものだから、 そんな事を言うのだろう、持てない奴の僻みだな」と やり返すのである。 そうすると、私達二人のバトルが始まるのである。

(57)

変な奴1

日曜日, 4月 13th, 2014

この男とは、私は長い付き合いである。 彼との付き合いは、私が死ぬまで続くであろう。 彼と私は、よく話をする。 私が「君の若い頃は、どんな性格だった?」と問うと 彼は「俺はあの頃は、かっこ良くなりたかった」と答えるのである。 私は「何故に」と言うと「俺は、若い頃は女性に 持てたかったのだ、女性を何時も意識していたな」と答えながら、 何かを思い出すような顔をするのである。 私は「みんな若い頃は、女性を意識するものだよ、 それが若さでないのかな」と言うと、 「俺の場合は、その意識が強過ぎたのかもしれない」と 寂しそうな顔をして、「あまり意識し過ぎて、持てなかったな」と ため息混じりに答えるのである。 私は「そうだね、あまり意識し過ぎる為に、行動がギクシャクして 相手から見ると、変な奴と思われるのかもね」と言うと 「俺は、身体に自信がなかった、身長が後5cm高けりゃ、 多少自信も付いたのかもしれない、その5cmの為に、 俺は靴に新聞紙をカガトの部分に入れて、歩いた事があるな」と 恥ずかしそうな顔をするのであった。 私は「そんな事をした時は、どんな気持ちだった?」と問い返すと 「その時は、何か自分が変わったように思ったな、でも、 その後は自分が惨めだった記憶があるな」と答えながら、 「きっと俺は、劣等感の塊だったのだよな」と 寂しそうな目をするのである。 私と彼は、この様にザックバランに、色んな話をして、 喧嘩をしたり、時には馬鹿騒ぎをしたりして 互いに牽制しながら付き合ってきたのである。 たまには意見が食い違いで、口を聞きたくない時もあったが どちらともなく、何時しか口を聞いているのである。 彼は口数が少ないので、私から質問する事が多かった。

(54)

高齢化について1

日曜日, 4月 13th, 2014

最近、日本の高齢化の激しさを感じてしまった。

 

私は昨年6月から、都営住宅に住んでいるのであるが、

自分の住んで居る階の人たちは分かるのであるが

他の棟に住んでいる人や、別の階の人と顔を合わせる事が

無いので、殆ど知らない状態であった。

 

今回、総会があって顔を合わせたのであるが、殆どの人たちが

私より高齢の方と思うくらいの人たちであった。

 

私自身は年齢より若く見られるが、90人近くの人たちが

集まったが、殆どの人たちが高齢者であり、

足腰が弱っている人たちが多かった。

 

考えてみると日本は高齢化が進んでいるが、

団地は、その最先端を行っているように思う。

これは深刻な問題であると、私は感じた。

 

政府や官僚が2020年には高齢化が激しくなると

言っているが、その前に、この状況を何とかすべきであると

感じてしまう。

 

まず、第一に団地での高齢化に対し

自治体も考えて行かなければならない。

現在の政府等のやり方では、今のままでは

悪くなるばかりであると思われるし、

団地の自治会自体も高齢者が運営して居て

今の会長が8期連続任務を行っているとの事である。

 

ここに問題がある。

このような高齢化により、自治会自体の運営がマンネリ化して

機能していない状態であり、それを打開していかなければ

ならないと感じてしまう。

 

8期もやっていたら、先を考えて自治会で、

何か対策を考えて進めなければならないのであるが

ただの寄り集まりだけで、高齢化に対する対処を行っていない。

これでは、何もならないと思っている。

 

そこで提案であるが、今や団地では孤独死もあり

足腰が弱った方も多く居る。

食料品の買い出しにも一苦労している人も多い。

 

買い物に行く事は、運動として良い事なので大いに進めるが

米など重いものは持ち歩けないであろう。

これだけ高齢化に成ったのだから、米を配達して貰う。

スーパー等ではなくて、JAや直接農家から買うシステムを

作り上げて行く。

 

高齢化により年金生活等で裕福では無いので、安く主食である

米を買うシステムを作る。

注文を聞きに行く事によって、元気にしているか等の安否確認も

行う事ができる。

 

次回に書くが、そのシステムと被災地支援に結び付けて行きたい。

(48)

ブログの書き方の変更

土曜日, 4月 12th, 2014

今までブログは段落を使用していなかった。

今回ブログの書き方を習って来たので、今回から書き方を変更したいと思う。

習って書く題材は「食べ物」であったので、私の思う事を書いたのですが

段落を入れるように指導されたので、これからは読みやすいように

変更していきたいと思い、今回の書いたものを載せます。

 

食べ物に関して

 

私は食べ物に関しては、好き嫌いが無い。

 

私の小さい頃は戦後間もなくなので、食べる物が少なく。

兄弟同士でも、争って食べた時代であったので

食べ物が口に入るだけで、幸福感があった。

だから好き嫌いなど言っていられない少年期であった。

 

その時代から日本の経済が発展し、飽食の時代に変わって来たが、

その頃食べ物に対しての感覚が、私の少年期と変わって来たように思う。

 

経済の発展にともない外国との交流によって、日本の食文化も発展して来たが、

日本人が何かを置き忘れて来たのではないかと感じる事多くなった。

 

今の自分たちの子供に対して、食べ物の大切さを教える事を

忘れて来た部分が垣間見られる。

同時に家庭の味も無くなりつつあると思う。

 

今やスーパーに行けば、調味料に関しては豊富に揃っている。

その調味料を使えば、何処の家庭でも同じ味になってきた。

 

私たちの少年期から青年期に関しては、親がそれぞれの味付けを

工夫して料理を作っていたし、漬物も各家庭で味が違っていた。

 

だが現在はスーパーで漬物や味を調える材料を買ってくれば良いので

家庭の味と言うものが無くなったように思えてならない。

 

「おふくろの味」と言われるものは、今では企業が作りだした味だ。

それを今の子供たちは家庭の味として味わっているだけなのだ。

 

日本経済の発展とともに、「おふくろの味」は消え去ったのであろう。

人は食には貪欲である。

だからこそ「おふくろの味」は残して貰いたい。

経済の発展と反比例して家庭独自の味が消えゆく事が

もの寂しい気持ちになる。

(141)

自分を振り返って(最終)

火曜日, 4月 8th, 2014

自分なりに歩んで来た道を考えると、自分の心の痛みや悩みなどを

顧みる事が多いように思う。

人はそれぞれに自分の歩んで来た道を顧みるのであろうが

それを生かさなければと思う事を、私は感じ取っている。

私自身は人とは違った部分を沢山経験したと思うが

それを生かすためには、私と同じような経験をした人が居たなら、

自分がその状況下で、どの様に思ったかを考えるようにしている。

そうすると同じような部分で相手の気持ちを考えられると思って

私は行動して来た。

逆に言えば私は普通に生活して来た人と違う部分を多く持っている。

それは自分にとっては幸いな事だと思うのである。

確かに、その時の自分は苦しかったが、時が過ぎれば

それは自分の経験として生かされて来たと思う。

同時に同じような経験者と、同じ目線で合わせられるので

アドバイスも出来ると思っている。

自分の経験から相手の気持ちに成って見る事を心がけている。

それによって相手を思いやる事も出来るし、

相手の立場も少しではあるが、理解出来ると思う。

人は皆同じ経験はしない、互いに違った経験を持っている。

そこで相手の目線に合わせた時には、

自分も別な面で経験出来ると思うのである。

これは貴重である。

人生は学ぶ事であるが、学びは自分一人では学ぶ部分は少ない。

多くを学ぶためには、相手との対話や行動からも学ぶ事が大きい。

それは自分にとって貴重なものである。

生意気かもしれないが、相対する場合は目線を同じくする。

それは老若男女でも同じである。

目線を同じくする事で、初めて互いを理解しあえる部分が

出てくると私は信じている。

だから、私が受けた差別でもイジメでも経験から

自分なりの意見を言える事だと思っている。

経験して居ないで言う事だけ言っていたら、

それは空論に近いものと私は思っている。

自分の生きて来た証の為にも、今までの経験を生かした事がしたい。

自分なりに努力しているが、まだ至らない自分が居る。

人は自分の歩んできた道で満足する事が出来ないのであろう。

それがあるから、人は学ぼうとするのかもしれないが

自分は学び足りないし、これからも貪欲に学んで行きたい。

(44)

自分を振り返って7

月曜日, 4月 7th, 2014

それは父も、母の愛情を知らないで育った部分があった。

父の実家は松前でも有名な家であり、ニシン御殿を建てるくらいの

豪勢な蔵も幾つもある家だと聞いている。

だが、父の母は後妻として、その家に嫁いだ為に、

自分の生んだ男の子は全部、他に養子に出したそうだ。

それは先妻に男の子が一人居たから、その子と私の祖父が死んだ後に

財産争いが起きないた為と聞いた事がある。

それだけ聡明な祖母であった。

だから父も乳飲み子の時に養子に出されている。

父方の私から見て叔父達も全員養子に出されたので、姓が違っていたり

親戚筋で同姓の方に出された人もいたそうだ。

ただ、女の子だけは家で育てられたと、父方の伯母から聞いた事がある。

伯母は私の父は「母の愛情を知らないで育ったから可哀そうだ」と

私が会った時に言っていた。

父は養子に出されたが先が没落して、大学を出たて頃に自分の家の

姓に戻ったそうだ。

その後は母と結婚して私たち3兄妹をもうけたが、

母は父の暴力で亡くなった。

父の粗暴な所は母の愛情を知らないで育った部分があったのであろう。

その面でも私は同じような経験をしている。

次には私には亡くなった母を含めて戸籍上の母は4人居る。

私は亡くなった母以外は「おばさん」としか呼ばなかった。

母もそうであったが、父とは10歳以上離れている人が

殆どであり、私も最初の奥さん以外は歳の離れた人と結婚したり

付きあっていた。

その面も似ているし、理屈っぽい所も似ていたりするが

私の場合は相手に対して言葉で圧迫しない部分が違っている。

どちらかと言えば口足らずなのが私である。

その面では父の言葉で圧迫された面が、私が嫌ったのであろう。

父を反面教師と思っていたが、自分の辿って来た人生も

父に似た感じで推移している。

父とは一緒に生活したのは、小学6年の終わりまでであるので

そんなに影響は無いと思うが、どうも同じような運命を

辿っているように思えてならない。

これは運命なのか、運命など信じない私であるがDNAが

そうさせるのか、父に似た部分と母に似た部分が交差している。

これは当たり前であるが、嫌いな部分が似て来ているのは

自分なりに嫌なものである。

ただ、母の良い所も似ているので自分なりに安堵しているが

それもお人好しな所であり、人には嫌と言えない部分なので

自分で独立した時もあるが、自分は金儲けが出来ない人間であると

その時に思って技術者として生きようと決めた。

父の死は長男である私が看取ったが、それが長男としての

勤めであると言う責任感からであった。

人はこの世に生れ出て親と同じような人生を辿るものなのか

他の人たちに聞いてみたいものである。

(39)

自分を振り返って6

日曜日, 4月 6th, 2014

彼女との付き合いで、自分の気持ちは彼女を守りたいと思ってし

彼女の親を思う気持ちを大切にしたいとも思った。

だが、それも付き合って1年近くで、彼女の母親が亡くなった。

その時の私は自分の母親を亡くしているので、彼女の気持ちが

痛いほど分かった。

だが、その1年後に彼女は、この世を去って行ったのである。

脳腫瘍で頭痛から左半身不随、次には意識不明になって

最終的に手遅れ状態であった。

私はその時は彼女と同棲していたので、どんな状態でも良いから

生きていてほしいと思っていたし、2度まで愛する人を失う事は

経験したくなかったので、医者に哀願したが手遅れで

腫瘍も取れないで手術も終わってしまった。

彼女は両親が居なかったので病院代から葬儀代まで

私が借金をして支払った。

その時の私は彼女の後を追いたくなって、海にまで行ったが

借りたお金があるので、その返済をしなければならない責任感から

死を思いとどまった。

その時ほど自分の運命の悪さを感じた事はない。

愛する人を、この世から奪われる悲しみに耐える事は

その経験をした人しか分からないであろうと思うが

若くして、その様な経験を2度も自分の身に降りかかって来る事は

少ないであろう。

それからの私は、その悲しみから逃げるようにして仕事に没頭した。

人それぞれかもしれないが、悲しい事があれば、

そんな自分から逃げたいと思うのではないか?

私は逃げていたと思う。

その逃げ場所は仕事であった。

仕事に逃げた私は信頼されるようになり、出世も早かった。

だが、私たちの時代は家庭を持たない男は会社では

信頼されないし出世も出来なかったのである。

私は仕事をするなら出世もしたいと思い結婚もした。

結婚と言っても私の場合は相手から言い出して

結婚した部分が強かった。

結婚相手は私を信頼していたようだが、私の死んだ彼女の

友達でもあったし、結婚相手も付き合っていた男性とも

私は親しかった間柄で、相手が別れたので彼女方から

「結婚してくれ」と言われて結婚した。

その時の自分は亡くなった彼女を忘れられないから

嫌だと断ったのであるが、相手から強引に迫られて結婚した。

相手とは愛があって結婚したのではないし、

私は死んだ彼女の位牌も持っていたので、拒んだのである。

結婚した相手は私を理解していたのか、良く尽くしてくれたし

私の我儘も許してくれたが、私の心の中からは死んだ彼女の

面影は消える事が無かった。

そのために私は仕事人間に変わっていた。

同時に出世もしたいと言う願望があり、真面目さだけが

取り柄のつまらない男に成っていたと思う。

ここまでで、自分の生きて来た持ちが決定した部分があるが

最初に書いた父と同じような道を辿っているのである。

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自分を振り返って5

金曜日, 4月 4th, 2014

私は次に差別を感じたのは、私を愛した人である。

その人は私を好きだから付き合ってほしいと相手から言って来た。

私の若い頃は女性から言う事は殆ど無い時代であった。

愛を表現するのは男性が行うものであると言われていた頃で

彼女から言う事が、勇気が居ることであったろう。

ただ私は、女性に対して付きあう方法が良く分からない人間である。

早くに母を亡くした事もあり、女性に接する方法が理解できていない。

今もそうであるが、2度結婚したが、どちらも自分から積極的に

言った覚えがない。

施設時代も女の子からアプローチされて、付き合った事はあるが

それも自分からでは無かった。

このような人間であるから、2度も離婚するのかもしれない。

話は戻すが差別を感じたのは、私が愛した人。

その子はから告白され、私は断ったのである。

その頃の、自分はホワイトカラーの職業に付きたかったから、

がむしゃらに勉強していた。

だから、彼女からの願いを断ったのである。

私が断った時に彼女が涙を流して居たので、私は、その涙を見て

動揺して「友達としてなら」と言ってしまった。

男は女性の涙に弱いのである。

それが縁で付き合う事に成ったが、その子は外国人手帖を持っていた。

最初は、私は日本人でだと思っていたので、何も感じなかった。

付き合いだして周りのアルバイトの上司から「彼女は朝鮮人だから

付き合わない方が良いぞ」と言われたのである。

その頃は朝鮮の方に対する差別行為が氾濫している時代であった。

私が子供の頃など朝鮮の子供を馬鹿にした行動を取るのを

良く見ていたし、誰しもが馬鹿にした態度を取る事が多かった。

子供であるから限度を知らない言い方に成していた。

太平洋戦争で日本に強制的に連れて来られた人が殆どであろう。

日本人は、それを知りながらも差別行為を行っていた。

私の母は、それを行う事を嫌った。

確かに母はカトリックであるから、人間は平等であると

教えられたのであろう。

私たち兄妹に対して、その様な行動を戒めていた。

だから私は上司の言葉に反発を感じて、その子との付き合いを

やめる事はしなかったし、付き合う毎に彼女を好きになっていったのである。

彼女は、父親は既に居なかったので母親に育てられた。

小さい頃には差別によってイジメにもあったのだろうが

そんな素振りも見せないほど明るい人であった。

親の苦労を知っているのか、休みには必ず実家に帰って居た。

彼女は住み込みで働き、母親が彼女の仕事先から借金をしていたので

自分の給料から返済して居たのである。

こんな事を今だから書けるが、その頃は、日本人は戦後の苦しい時期を

乗り越えて繁栄期に入る前であったから、貧しさを皆経験していた。

私も貧しさから抜け出したかったし、前にも書いたが父からの援助は

受けたくなかったので自分なりに勉強して上を目指していた。

だから彼女の受けた苦しみは分かるし、互いに支え合う気持ちが

私の中に芽生えたのである。

私も差別や貧しさを経験していたから、周りの反対に抵抗したのであろう。

だが、これが私の人生の転換期に成った部分が大きかった。

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