Archive for 3月, 2014

自分を振り返って1

月曜日, 3月 31st, 2014

最近、自分が嫌っていた父と同じような人生を

辿っているように感じる。

私は父が嫌いであった。

それは父の暴力によって母が亡くなった事が原因で

私は父にだけは、世話になりたくないと思い生活して来た。

母が亡くなったのは私が小学校の6年生に成ったばかりの頃である。

母の死に顔も見せて貰えず、私は泣くだけであった。

それからの私は父に対して反抗したが、厳しい父であったし

直ぐに暴力的圧力で威圧されていた。

私は長男として厳しく育てられた、父の躾は暴力的あった。

そんな私を助けてくれたのが、何時も母であったが

そんな母を父は暴力で死亡させた。

それは私の心の拠り所であった母を取り上げたと思った。

まだ幼い自分には深い傷となった。

その傷の癒す事は自分には出来なかったが、父に対する反抗心が

芽生えて行っただけである。

私は家出を繰り返し、食べる為に盗みもした。

それが父の逆鱗に触れ、私は幾度も死ぬ思いの暴力を受けた。

確かに、まだ小学生では一人で生活など出来ない。

だが父だけは許す事が出来ない自分が居た。

母は馬鹿が付くほど、お人好しで自分の家に食べ物が無くなるのに

人が借りに来ると貸してしまう人であった。

母はお嬢さん育ちでカトリック信者であった。

そんな母を私は愛していたし、慕っていた。

父の厳しさに耐えられたのも母が生きていたからである。

その母が居ない自分には、何も残されていない心境であった。

だから父に反抗して家出を繰り返していた。

食べる為に盗みもしたし、野宿もした。

だが連れ戻されて父の折檻にあう。

それは半端ない折檻である。

バットやデレキ(石炭ストーブに使う鉄の棒)等で

死ぬほど殴られた。

殴られながらも恐怖を感じていたが、父への憎しみが

増すばかりであった。

子供は親の暴力の激しさでは、恐怖しか感じない。

労わる気持ちが無ければ躾とは言えないと思う。

そんな自分であったが、父に対する憎しみは増すばかりであった。

 

(140)

日本は

日曜日, 3月 30th, 2014

最近、考えるが日本人とは。

自分は日本に生れて戦後復興のために働いて来たが

バブルが弾けて、日本の経済も落ち込み、貧困の格差が

広がって来た、政治家は、その事には触れず経済とか

防衛等の事に専念している。

経済に於いても、昔の自民党のやり方で公共事業等に

予算を入れ込み、消費税が値上げする4月からの

その消費税に関しても、ボカした使用方法であり

日本の先行き経済は、どの様に変化するかなど考えていない。

今の政治家は先を見越した政治など考えて行動していないのが

現状であろう。

はっきりと言って政治家ではない。

私から言わせると政治屋と言う職業であり、無駄な税金泥棒にしか

過ぎないように見える。

これに関してマスコミも国民にも責任がある。

特にマスコミは真実の報道などしていない。

政治家や官僚の顔を伺い、それに都合の良い報道を行うだけ。

仮に真実を報道したら、政治家や官僚サイドから圧力が掛かり

報道を取り下げる傾向にある。

国民はマスコミから情報を得るが、そのマスコミが

このような状態では国民も半ば諦めている状態である。

また選挙近くになると、マスコミは政治家の思惑と

経済界の思惑の報道を行い、それで国民をたぶらかしている。

それに乗って国民は政治家を選択しているのが

今の日本の現状である。

この状態が続く限り日本は変わらないであろう。

自民党や公明党等が、議員削減等の選挙公約は何処へやら

機密法や武器販売、自衛権問題にすり替えて、数の理論で

押し通す政治を行い、これからの日本の将来的見通しなどを

考えている政治家は居るのか。

目先の事ばかり考えている政治家と、金魚のフンで数でしかない

政治家の集まりが国会であると思えてならない。

政治とは何かを分からない政治家ばかりの烏合の衆であると

私は思うし、官僚も「お上」風を吹かして貧困の格差を

広げている張本人であり、その宣伝マンがマスコミであると

思えるのは悲しい日本になったと思う。

もう少し国民に説明できる政治を行ってほしいし

マスコミも、そこまで切り込んでいってほしい。

それは国民がもっと政治に対して考え、意見を言うべきである。

(43)

これからのSNS

土曜日, 3月 22nd, 2014

今、SNSで繋がって来て、色々な面で問題定義や運動などに使われている。

これだけ発展して来たので、色んな意見が取り入れやすくなったし

情報も入るようになった。

その中で今後は原発問題や憲法改正などの定義に関して

賛成や反対意見も出て来ているし、ヘイト問題なども出て来ている。

これは良い事であると私は思う。

ここで私が思うのは、もう少し世界に発信する方法を

日本人は考えてほしい。

日本人は世界に発信する事が下手である。

私が海外で仕事をしていた時も思ったが、大使館には

日本を紹介するポスター等が来るのであるが、ポスターは大使館に

山積みされていて、配られる事なく眠っていたのである。

また、日本はODAなどで途上国に多くの援助を行って来たが

援助されている国民は日本が援助している事など分からないのが

現状であり、日本が何処にあるかと聞いたら「中国の中にある」との

答えが返って来た事もあった。

世界的に日本が一番途上国に援助を行っていた頃の話である。

日本人は奥ゆかしいのを良いとしているが、

それは日本国内での話であるべきだと思う。

だから中国や韓国などに先に世界に言われて、反論するが

それでは日本を駄目にしてしまうと思う。

過激な発言はすべきでないが、それなりの意見や日本が

やっている事を発言すべきだと思う。

ここまでは、今までの経験からの事であるが、

今の日本は大きな問題を抱えている状態である。

その問題をSNSなどを使って世界に発信する時であると思う。

今の日本でのSNSの使い方は、国内だけで行っているが

これでは「池の中の蛙」状態で、犬の遠吠えでしかない。

原発問題は世界的に発言すべきであり、その為にも海外に発信すべきである。

そのためには海外の発信先を選定して、そこに日本の現状を訴える事も

考えて行く時期である。

私もFacebookで海外の友人などと話をしていたら、友達申請が来たりする。

私は自分から友達申請はしないのだが、相手から友達申請が来た場合は

必ず相手のプロフィルを確認してから受ける事にしている。

誰でもと言う事は問題が起きるので、実際に起きた事もある。

ここで言いたいのは、日本の問題点を世界にも発信して

日本の良い面、悪い面を見て貰うべきであると思う。

また、原発問題でも、そうであるが世界に発信して

今の日本の政治家に世界から分からせる方法でもあると思う。

(51)

20代の頃書いた文

金曜日, 3月 21st, 2014
人の心は川の流れのように変わる。 人は幾度か、その流れを止めようとするが 流れは止まらない。 川の流れは、ある時は大きな岩にぶつかり水しぶきを上げ ある時は川面に、時を止めるように、ゆるやかに流れ、 人を落ち着ける。 だが流れも停止する事は無い、人の心のように変化を重ね 木々を倒し荒れ狂う激流となり、人を教えて行く。 人は、その流れに反抗しようとするが、流れは自分を主張して 次の流れを作り出す。 人は流れにまかされながら、自分を見つめる。 流れは人を教えながら、流れに乗せて行く。 人は自分の流れを変えようとするが、流れは、それを許さない。 流れは人を教え、鍛え、苦悩を与えて、大海に流れて行く。 流れは人の教師でありながら、人の反面教師でもある。 人は逆らいながら、自分を見つめなおす。 流れは何時しか止まる。 流れは労働者であり、哲学者であり、人の理解者であるが また、反発者でもある。

 

(51)

差別とイジメ

月曜日, 3月 17th, 2014

最近、ヘイト集会などで差別的行動が激しくなって来た。

人間は差別する動物である事は分かっているが、良識ある人は

それを出さないし、差別に対しては自分なりの意思を持って行動している。

今のヘイト集会などは、子供のイジメと何ら変わらない行動である。

こんな事を大人がやっていたのでは、子供たちはイジメに走るであろう。

子供のイジメに対しては、マスコミも報道するが、今回の差別行動に関しては

マスコミも騒がない。

何故なんだろう?

私は途上国(中南米)で仕事を5年間近くして来たが、途上国の差別は日本より

酷い状況ではある。

これは黒人奴隷制度の名残であり、白人社会の遺物的存在であるからだ。

日本でも私の生まれた北海道では、アイヌの人たちに対する差別があった。

同時に太平洋戦争で強制的に連れて来られた、朝鮮の人たちに対する差別も

酷かった。

今の差別運動は日本が太平洋戦争に、突入する前の状況に似て来たと

私は思えるのである。

同時に政治も、そちらの方向に向いているように思えてならない。

これでは外交・政治的にも問題は解決できない方向に向き

それを一部の国民が煽っている状況なのだろう。

私は差別に対しては反対する。

それは自分自身が差別を受けた経験があるのと、カトリック出会った

母からの教えで差別に対しては自分なりの信念を持って反対する。

人は優越感を持つ為に、他の人を差別して自己満足する動物であると

私は考えるし、子供のイジメも差別と何ら変わらない事であると思う。

それを馬鹿な大人たちがやっているだけで、単なるイジメを差別と

言い換えているだけなのである。

こんな状況で、子供のイジメ問題を大人たちが問い詰める事が

出来るのか疑問に思う。

差別もイジメも言葉を変えただけで同類の行動である。

それを分からないで行動している人たちは、人間として恥を

知るべきである。

(41)

日本人と政治2

日曜日, 3月 16th, 2014

前回にも書きましたが、多くの日本人は封建社会から脱皮しない

民主主義の考え方なのだと思う。

この状況で日本は変われるのであろうか?

変われないであろうし、変わらないであろう。

国民が声を上げても、それは一部の人間だけで、前回書いたように

政治家を選ぶ段階に成ると、目先の事でマスコミなどに操られて選び、

選んだ政治家が引退や亡くなると、次に担ぎあげるのは、

その子供たちか親類である。

何ら昔の領主が統制していた時代と変わらないやり方で

日本の政治は、ここまで来た。

だが、今やこれでは駄目であると思う人たちも出始めたが

それは極一部である。

前にも書いたが、国民からの声で政治を動かす事が出来ない

国民性を持っているのが、日本である。

寄らば大樹の陰、長い物には巻かれろ、赤信号みんなで渡れば怖くない。

これが日本国民の姿なのである。

島国根性が抜けない、「お上」には黒でも白と言う国民性である。

この状態が続く限り日本の政治は変わらないであろうし、

政治家も官僚も、それを利用して事を運ぶだけである。

基本的に日本国民は政治に対して無関心、自分が良ければ良いと思い

他人の事など考えない古来からの風習が寝ず居てしまったのかもしれない。

本来、政治は国民の為に行うべきなのに、政治家は自分の為に行う

烏合の衆で国民の声など聞いてない政治を行う連中である。

それを選ぶ国民は、その政治家を信頼しているわけでは無く

自分の利益に成るかだけを考えて選んでいる。

政治家も金をばら撒き、国民を誘導しているのであるが

それは高度成長時代のやり方であり、今や世界は変わりつつあるのに

今だかって、その頃と同じやり方で政治を行っている。

国民もそれに従っているだけで、マスコミなどは政治家と官僚の

言うがままの報道しか出来ない。

それこそ「長い物には巻かれろ」のマスコミである。

それを信じる国民も愚かに感じるが、真実を示すべきマスコミも

機密法などで制約されて、政府と官僚の伝達役にしか過ぎない

存在になるのは明らかである。

ここまで落ちたら日本国民は分かるべきであるが、

それが出来ないのは、封建時代を引きずった民主主義だからであろう。

(30)

戯言1

土曜日, 3月 15th, 2014

私がこんな事を戯言として書いた。

私は二人の愛する人を、今でも思い続けている。

どちらも女性であるが、一人は母で私が小学校6年の時に

この世を去った。

それは父の暴力で亡くなった。

母は私達子供を食べさせるために、夜働いていた。

それは戦後の間もない時代では、女性が働く場所は

夜しかなったからであり、父が働かなかったから

母が働いて私達3兄妹を食べさせてくれた。

母は馬鹿が付くほど、お人好しであり、

カトリック系の女学校を出た、お嬢さん育ちであったので

母は働く事など出来るのかと思ったが、

私達子供の為に働いたのである。

父は短気ですぐ手が飛んで来る人であった。

その暴力は半端でなかった、他人から見ると

狂気的であったと思うし、私から見ても狂暴であった。

今の女性なら別れているであろうが、

母も実家に逃げ帰った事が幾度もあるが、私が迎えに行くと

母が言っていた「子供の為に別れない」と言っていた事を

私は幾度も聞いた。

あの頃の母は自分の気持ちを殺して、子供の為に生きていたのであろう。

そんな母を見て育った私は、早く大きくなって母を助けたいと

幾度も思ったものである。

父は、酒は飲めないのであるが、酒乱ではないが

気が短いのと、理論で人を追い詰めるタイプであった。

母の身体に痣が無い事はなったし、私も同じように父に

躾と言って幾度も叩かれて、母の止めに入ると

今度は母に暴力を振るって母が犠牲になっていた。

母は私をかばってくれたし、私を可愛がってくれた。

だから母が実家へ帰った時は、私が父に言われて迎えに

行く役目であったが、自分としては母が実家に居る方が

良かったのではないかと思う事が幾度もあった。

そんな父に暴力で妊娠している母は、お腹の子供と

一緒に亡くなった。

私は父を憎んで、グレ出したが小学六年生では

それが自分での抵抗できる範囲であった。

私の愛する母を亡くした悲しみは自分にとって深い傷だけが

残ったが、そこには何も出来ない自分も残った。

同時に、この事が自分の人生を作り上げたようにも思う。

(35)

ネット社会に思う

月曜日, 3月 10th, 2014

今の時代は高齢の方以外は、SNSをやらない人が少なくなった。

確かに便利であるが犯罪に使われる率もアップして来たと思う。

私自身は40年以上コンピュータに携わり、システム作りを生業として来たが、

コンピュータの恐ろしさも知っている。

これだけPCが発達して来るとは思わなかったが、PCの発達とともに

オンライン化が進み、便利な時代にはなったが、私の危惧していた事が

起こりつつある。

それは対人間に関わる事であるが、今に時代人間同士の会話が

減りつつあるように思う。

それは別な面で人間不信を起こしているのではないか?

インターネットで会話していると、若い人は思っているであろうが

会話は人間と対面でして行う事によって、信頼関係が生まれるのである。

ネットでメールなどの文章で会話したのを、

会話と勘違いしている人が多いように思う。

特に若者は、その様に勘違いをしている傾向がうかがえる。

これは高校や中学時代から、メールなどで連絡しているが為に

それを会話と勘違いしてしまっているのであろう。

これは教育関係にも問題が生じてしまう。

今の教育に携わる先生方もメール時代を過ごして来た先生なので

人との会話を重視しない傾向が出ているのではないかと思う。

全部がそうではないが、その様な状況を否定は出来ないであろう。

私自体もコンピュータ関連が長いがので、メール等は使う。

だが、私の場合はコンピュータの発達によって、対人間関係に

問題が起きる事を危惧していた。

それはコンピュータの発展とともに、誰もが使う時代に成って来たので

コンピュータを道具と見ないで、自分の分身的存在にする傾向が

強くなったからである。

これが問題なのである。

私は初期のコンピュータ時代から、この業界で生業を立てたが

コンピュータの中期頃に疑問を感じ始めた。

それはPCの発展とともに対人関係の悪化が生じるように思えたのである。

私はPCが開発された頃からメーカーや大学などとの研究会に出ていたが

私たちシステム開発者からすれば、PCはおもちゃ的に見ていた。

だが大学側では発展する要素が強いと言っていた。

確かにその通りに発展して来たが、そこには機械的発展のみを

討論していたのである。

確かにコンピュータは便利であるが、対人関係に使う場合は

色々な問題点が生じてくる事を考慮しなければならない事を

私たちコンピュータに携わる者が考えなければいけなかったが

コンピュータの進歩するテンポが速すぎて、そこまでの考慮する事が

出来ない状態に成っていった。

同時にインターネットが発達して、PCの性能も高くなり

あらゆる分野にPCが出て来たが、それと同時に対人間関係の問題も

生じるように成って来たと思う。

今やメールやSNSは当たり前であるが、そこにはあくまでも文章での

やり取りであるが為に、人それぞれの理解の仕方が違って来る場合ある。

そうなると相互間の相手が見えない事で、好き勝手なメールが飛び交い

中傷的な文章を堂々と書く人たちが出て来ている。

だが文章には書ききれない、説明できない部分が多くある事を

考慮するべきであるが、それを理解しない人も増える。

同時にSNSの発展により、twitter・facebook等が

発達して便利さが出て来た。

同時に犯罪要素も隠されるようになって来ている。

果たして、これからはこのNET社会をどの様にして行くか

考える時期に来ている

(51)

イジメに関する私の考え方

土曜日, 3月 8th, 2014

イジメに関しては、奥が深い。 いじめる側は家庭環境での問題がある子が多いと思う。 いじめる側の家庭では、知らなかったという親が居るが それは違っているような気がするのである。 私のように虐待を受け、そのストレスが他にぶつける事が いじめる側になりかねないのと、いじめられる側にもなりうる。 だが親はそれを認めず、躾と言ったりするが、違っている。 子供は、暴力的な躾は、それが劣等感になりうるのである。 子供は恐怖感から、自分が駄目だと思ってしまい劣等感になり それが子供として、伸びる部分を摘んでしまう場合が多い。 私の場合は親の暴力的な躾で、自分を萎縮させた部分が多かった。 それが自分の劣等感になっていたし、学校に行っても その面が出ていた部分が多かった。 逆に、そのストレスが、いじめる側になる部分が多い。 ただ、私の場合は母が庇ってくれ、自分の代わりに父の暴力を受け、 それが父に対する憎しみが強くなった部分があった。 それが別な面で出て、反骨精神を生まれだしたと思っている。 そこには父の暴力で、母が亡くなった事が大きすぎたからだと思う。 その事によって私の反骨精神が、イジメに対しても 負けない部分を作ったのと、私は母を尊敬していた、 母はカトリック信者で人に対する、色んな面を教えてくれた、 それは人に接する優しさである。 子供は親の背中を見て育つ事は、親は分かっているであろう。 家庭で子供の良い点を褒めるたり、躾をきちんとしている子供には いじめる子は少なし、いじめられる側になる事は無いように思う。 だが現在の親たちは、高度成長期に育ち、私から言わせると 躾に対して甘い部分が多すぎる。 善悪を教え方が下手、子供の自立心を 考えていない部分が多すぎる。 「絆」という言葉も、私たちの頃は自然であったが、 今回の東日本大震災で「絆」が言われるようになったのは 日本人自体が「絆」を忘れていたからだと思うのである。 その忘れていた「絆」が、今回の大震災で出てきたのだと思う。 こんな事を書いたら、年寄りの戯言と言われるであろうが 私の経験談から思うと、今、親の躾は「個」を優先している 人と人の輪を教えないし、学校でも、それを教えていない。 受験のために学科を教え、如何に良い学校に入るかを 優先しているし、親もそれに同調して競争心を植え付け 人と人の絆を忘れた学校教育と家庭で育つことによって いじめをエスカレートさせた部分があると思う。 それは行政にも問題があるし、私たちが育てた子供にも なお、そのようにしてきた私たち世代も責任がある。 今の世代で反省できる、今回の大震災による「絆」を 大切にして行かなければならない。 それは、いじめと違っていると思う人もいるであろうが 人と人の「絆」や労りの気持ちを植えつける事によって いじめの部分は少なくなるであろうと思う。 そこには家庭と学校での躾の仕方もある、良し悪しを はっきりと理解させる事によって、いじめの問題は少なくなると思う。 だが、今の人に対する思いやりや、労りを教える家庭が少ないように 思うのは、親の世代が受けた教育にもある。 今のいじめは陰険になりつつあるのは、学歴社会を進行させ 国の成長とともに、いじめも歪つになって来たと思う。 いじめに関しては、裕福でも貧困でも、無くなる事は 無いであろう。 私も途上国で仕事をしたが、貧困の差でも、いじめを見たし 私たちの時代でも貧困の差による、いじめがあった。 これは子供の中では、どうしようも出来ないことである。 貧しい子は、いじめる側になる率が多い、裕福な子は いじめられる側になる率が多いようだ。 私の時代も同じ傾向であった。 だが死に至らしめる、いじめは無くするべきである。 それは父兄も学校側も行政も、それなりの対策を考えて もう一度、人間感の「絆」を教えるべきである。 今回の大震災で、そのチャンスが来たと思う。 人と人の交わりの中で、労りや優しさを学ぶことが出来 いじめに対しても、子供の中でいじめを対処する気持ちを 育てる事が出来て、いじめが少なくなるであろう。 いじめに関しては、無くする事は出来ないが、 人との絆や、人との繋がりを教えることによって 考えて行くべきである。 それは親も学校も行政も対応しなければ、いじめは 少なくならないであろうし、今の状態ではいじめは 陰険なり、いじめが巧妙化してくるだけであろう。 行政も親も学校も、色々な方策を考える時期である。 今の状態で、騒いでいるだけでは、いじめはむしろ 陰険になるだけであろう。 これは大人たちの責任である。

(64)

3年目の被災地に思う

金曜日, 3月 7th, 2014

あの大災害から3年目に入った。

多くの犠牲者を出した災害は、復興へと進みつつあるが

今だかって復興は進む状況には無いとも言われる。

私も3年間ボランティアとして、毎月行ったが私が感じた事は

被災地の人たちもボランティア活動で支援する人たちも

慣れ過ぎて何かを忘れているように思えてならない。

確かに3年目と言う節目は、仕事でも結婚でも、慣れというものが

出て来てしまう時期である。

これが今の被災地の人にも、ボランティア活動の人たちにも

出て来てるように思える。

特に被災地の方は行政の遅れによって、復興まで考えられない人達が多く居る。

この事は政治に問題があるし、今の政治家では出来ないであろう。

特に国会議員などは被災の事を忘れたかのように動いている。

これに伴い官僚も同様であるがために、それで行政的問題が

足かせとなって復興が進まない事が大きい。

この遅れが、被災者の方の復興への意欲を欠落させる原因でもある。

私は幾度も同じ場所にボランティアとして行っているが、

今や被災した方の多くと親しくなるが、そこには見え隠れする状況は

被災者側に頼る気持ちがある。

これも問題であると私は思う。

3年目に成ると自立意識を高めなければならないが、それが欠落している部分が

見受けられるように成って来た。

全員がそうでは無いが、その様な傾向が強い。

これは被災地行政の責任でもあり、復興手段の遅れが

復興に対しての住民意識を欠落させている。

また、ボランティア側も震災当時と同じような行動を取る事にも責任があるが

3年目が終わったら、今後は復興で無く振興を考えた行動を被災者側も

ボランティア側も行う事を考えて行動すべきである。

復興自体、地域住民が立ち上がらなければ復興は出来ない。

これは誰が考えても分かる事であるが、一部の人たちは考えているが

まだ、まだ行政側も被災者側も、そこまで行きつけていないように

私は感じるのである。

これは人間心理である、慣れ合いがボランティア側にも

被災者側にも出て来ている。

また、別な面で問題も起きている。

それは被災者同士の問題である。

特に地方であるがゆえに、近所関係は都会から見ると親密である。

これが仮設住宅から出て行く側と、残る側の摩擦も生じている。

また、高齢化によって資金的な条件や、仕事の関係などで働く場所も

無い状況であるがために仮設から出られない人達も居る。

このような状況下で先を見越したボランティア活動が必要に思える。

(42)

日本人と政治

木曜日, 3月 6th, 2014

私は日本人の政治に対する考え方に疑問を持っている。

一応日本は民主国家と言われているし、国民もそう思っているであろう。

だが、本当に民主国家なのであろうか?

今の政治家の政治のやり方は、国民を蔑ろにした政治に思えてならない。

これは国民にも責任があるが、日本の政治体制にも問題があると思う。

日本は徳川幕府を倒し、明治維新へと進んだが、そこには民衆の声が

反映されていたのであろうか?

私は反映されていなかったと思う、藩の権力争いによって維新が成りたった。

藩制間の争いで明治維新が起こり、勝利した藩が権力を握って明治維新となった。

それにより今までの幕府が天皇に取って代わったが、そこには今までの武士の

政治体制は残されていたのである。

明治時代は開国により海外の情報を取り入れて、維新政治に変換したが

そこには武士が官僚と言う名に変わっただけなのである。

一般庶民から改革の声が上がって維新がなされたのではないため

庶民は「お上」が将軍から天皇に変わり、政治を仕切るのは官僚と言う名の

武士たちの集団に成っただけなのだが、その官僚が国民に対して海外の情報を

流して、民主化と思わせたに過ぎない。

国民も、それに気が付かずに政治が変わったと思い込み、

ある程度の自由を与えられて、勘違いしていただけのように思う。

外国の民主化は国民(庶民)側から声が上がって、改革が行われて来たのであるが

日本は藩制の中で武士が声を上げて権力(政治)を変えたのである。

この事が、今の日本にも受け継がれている。

日本は第二次世界大戦で敗戦国に成り、

アメリカから民主化を迫られて憲法を制定した。

ここに問題は無いが、日本の国民の考え方は庶民からの声で民主化に成ったのでは

無い事に問題があるように思う。

日本国民の政治に対する考え方は、封建制度の継続的民主主義のように思う。

日本は今まで国民から声が上がって政府が動いたか?

安保闘争が庶民から上がった強い抗議であったが。

政府は弾圧はしたが動かなかった。

外国では産業革命等では庶民からの声で改革されて来た。

だが日本では違う、官僚体制で何事も動かし、それを政治家が同調して政治を

執り行って来ただけなのである。

政治家を選ぶ国民は、昔の藩制と同じように跡目継続のように政治家を選び

それで2世や3世議員を作り上げて来たに過ぎない。

昔の藩制と同じように、金のある商人に頭が上がらず、その商人を抱え込み

政治を仕切って来たように、今も政治家は金の持っている企業に有利な政治を

行う事に成っている。

日本人は民主化と思っているが、国民(庶民)の声で、今まで何も変えていないし

国民の声など無視して政治を行って来たのは、国民が大人しいから政治家と官僚の

言うがままの政治に成ってしまっている。

これは民主主義とは懸け離れたものなのであるが、日本ではこれを民主主義と

思っている人たちが多すぎる。

だから政治家と官僚や大企業はやりたい放題であろう。

国民もお上の政治体制から抜け出せないように官僚が体制を作り

企業は金で操りやすい政治家を選択して、国民に押し付ける。

国民は自分たちの声など上げる事が出来ず、大企業と官僚の言うがままの

政治家を選択する繰り返しである。

日本人は封建制度のままに、民主化された政治体制に気が付いていない。

これは世界的にも見て、日本が民主主義と言うには愚かであるように思う。

国民が意識を変えない限り、今の政治も変わらないし民主主義と言えない。

これは封建制度と何ら変わらない、ただ自由にものは言えるが、言うだけで

国民の声など反映されない封建的民主主義の政治が行われているだけなのである。

基本的に政治家を変えなければならないが、

その前に選ぶ国民の意識を変えなければ

日本の政治体制は変わらないであろう。

(78)