変な奴2-20

5月 16th, 2014

あの時の自分の心境は、親父の癌での闘病も見ていたので、

癌と自分で分かった時は、自分なりに死を覚悟していた。

食欲も無くなり、血便も出ていた、後は死を待つだけかと

感じ取っていたのである。

それで倒れた時は、横行結腸が癌で塞がれ、便が出ないで

出血だけ、食べた物は口から吐き出す始末に成って居た。

結果的に割腹手術となったが、転移してなかった事を知らされた時は

自分の考えていた死が遠ざかった事に安堵した。

そんな事を思い出して「人間て、死を覚悟して助かると、命根性が

きたなくなるのか、生きたいと思う気持ちが強くなるよな。」と

自分の気持ちを素直に言った。

 

奴は「お前は病院嫌いで、大病を患った事もなかってし、

どちらかと言えば健康優良な人間だったから

病院に行かなかったのだろう」

 

「うん、それもあつたし、その頃は、癌は死を意味する

風潮があったからな、同時に父も妹も癌を患ったから

半分諦めもあったのかもしれないな」

 

「だけど、癌の後に、健康診断で胃に影があると言われて

お前は唐突もない事をやらかしたな、ママチャリで東京から

北上して三陸海岸を通り、青森から南下して日本海を通って

下関まで行ったよな。

他の人から見ると変人だよ、それもママチャリも9,800円で

スーパーで買って、家で使っていたやつだろう。

どう考えても無理があるよな、誰もやらないよ、そんな事」と

あきれた顔をして言って来た。

 

「そうだな、健康診断で胃に影があると言われた時に、

癌が転移したと思ったのだ。

それで、それなら何かやって見ようと思いついたのが、

ママチャリで日本を回ろうと思った。

ママチャリで回っている人は少ないだろう。

人がやってないから挑戦してみようと思ったのさ。」

 

奴は「お前は変わっている、前からそうだが、人が騒ぐ物には

興味を持たないよな、他人と違った物を持ちたがる傾向はあったが

ママチャリで日本を回ろうとは、馬鹿としか言いようがない。」

変人を見るような目つきで言うのである。

続けて「ママチャリじゃ、大変だろう、良く警察に止められなかった

どう考えても普通の人はやらないし、考えもしないだろう。

お前だから考えてのかもしれないが、峠やトンネルなども多いだろうに?」

 

「確かに峠は沢山あったな、1時間から2時間、自転車を押して登った

最初は辛かったが、慣れて来ると、ここを登れば下りだから楽できると

思う事にして頑張った、また、昔の人は歩いて旅をしたのだから

俺なんて自転車で楽しでいると、自分に言い聞かせながら走っていた。」

 

「本当の馬鹿だな、お前は。 それで東京から山口県まで

1都1府17県を回ったのだな、どのくらい日数で行ったのだ」

 

「45日かな、出発したのが8月の初めで終わったのが9月中旬、

本当は九州に行こうと思ったのだが、資金が続かなかったから

山口の下関で帰って来た。」

(97)

変な奴2-19

5月 15th, 2014

奴は「それで、良くシステム設計が出来たな、こんな大雑把な奴になら

俺だったらシステムは頼まないぞ」と言うのである。

 

「確かに大雑把かもしれないが、仕事に対しては、別な部分が出て来るのだよ

性格的には大雑把だから、あのハードな時代に身体も持った部分もあると思うよ。

そうでなければ神経が参ってしまうよ、月250時間以上の残業を

こなして、徹夜、徹夜の毎日を繰り返して居たら、

自分で自分をコントロールしなければ、どうにもならなくなるよ。

ましてや、その頃はコンピュータの成長期だから

人手も足りない状態だから、そんな事が1年や2年でないのだから」と

反論した。

本当に、その頃はハードであった。

建築関係の人なら、雨が降ると休めるが、私たちは室内で仕事をしているので

休む事も出来ないし、特に納期近くに成ると徹夜は当たり前であった。

奴は、それを知って居ながら言うから、私は腹が立つのである。

 

奴は「お前は、ドミニカでは騙されたかも知れないが、

4年間、仕事をしたのだから性格的に合って居たのかもしれないな

そうでなければ、4年間は居ないだろう」と

機嫌を取るように言うのである。

 

「そうだな、俺の性格がいい加減な所が、ラテンに向いていたのかも

こちらの連中は日本人からすれば、いい加減すぎる。

時間はルーズだし、仕事より私生活の方が優先させるし、

俺は最初の頃は、こいつらの頭の中は女の事しか考えていないのかと

思ったくらい、女性に対しては豆だった。

それを仕事に向ければ良いのにと思ったが、こちらでは日本的に考えたら

とても生活出来ないと思った。

それに気が付いたのは1年近く経ってからだったな、

それでODAの案件通ったので、特例で4年に成ったのだ。

今でもシニアでは、4年と言うのは最初で最後みたいだよ、

同時にODA関連も同じ見たい」

 

「でも、良く通ったな、お前の計画案、そこが不思議だよな

こんないい加減な奴が計画したものを認めるとは?

日本でもお前が計画した案件が、通産省でOKに成ったのだろう、

こちらでも計画案が通ったと言う事は、お前は企画力があるのだな

人は分からないものだな、俺からすると、いい加減な奴にしか見えないけど

企画が通るとは世の中、狂ったかな?」と馬鹿にした言い方をして来た。

 

「確かにな~、いい加減な所もあるよ、でも俺は何時も考えている

仕事に入ったら最善の方法を見つけたいと思って観察するのだ。

仕事場の人たちの行動や業務内容を見ている、何処かに改善点がないか

これを変えたらどうなるとかを考えているな。

どうも私の癖なのかもしれないが、道を歩いていても

何か使えるものがないかとか、これを、うまく使うと別な部分が

生きるのではないか等、何時も何かを求める性格みたいと

自分で感じる」と答えながら、私は電車に乗って外を見ていても

何か使える事がないかとかを考える癖が、日本に居た頃からあった。

それが自分では自然なのであるから、他人から見ると変人であろう。

 

奴は「それでドミニカか・・、帰国してから大腸癌にもなったし

良く生きていたよな、憎まれっ子、世の憚るとは、よく言ったものだ

お前は癌だと分かって居ながら、病院にも行かなかったよな。

あの時は、お前の親父も癌で死んでいるから、

あきらめて病院にも行かないで、死を覚悟していたのだろう。

どうにもならなくなって、倒れてから病院に行ったよな。

あの時は、お前は死を覚悟して、癌と分かって居ながら病院にも

行かなかったのだと感じていた。」

 

「確かに、あの時は癌と自分で分かっていたし、職場の人たちからも

痩せすぎで何処か悪いのではないかと言われていた。

自分なりに癌の兆候があったのも分かって居たのだ。

でも人間、死ぬ時は1度だけだと思って、3か月近く病院にも行かなかった。

病院に行っても癌と宣告されるのが嫌だったのかもしれないし

怖かったのかもな。」

(32)

変な奴2-18

5月 14th, 2014

「そうだな、それは俺の仕事好きが目を覚ましてくれたのかも、

日本のDOAの計画案の公募があって、ドミニカ共和国では

20近くの部門で日本が援助していた。

専門家、青年が殆どで、私たちのシニアは

俺が第1号で他の部門で3名ほど来ていた。

大使館からDOA案件の作成依頼が来たので、私の考えている事を

案件として出した。

どうせ、専門家の案件が優先されると思っていたし、俺たちは

専門家の半分の給与であり、業務に使える資金等は10分の1程度

だから、期待などして居なかった。

それは赴任して1年目だった、その頃は騙されて、こんな国から

早く帰りたいと思っていたな」と、シミジミとして答えた。

 

「確かに、あの頃は、お前は今すぐにでも帰りたい気持ちを持っていたな。

だけど良く我慢したな、それもドミニカの友達と家族が居た部分が大きいし、

同時に専門家の一人と友達に成った事も良かった。

彼が居たからもった部分もあるな」

 

「うん、彼は多く中南米の国を回っていたので、習慣など知りつくして居た。

だから、その国の状態や習慣などを教えてくれたし、ストレスの解消方法も

彼から学んだな。

彼の存在が、一番大きかったかもしれないな、残る気持ちに成ったのは」

 

「そうだな、お前と、その専門家の友達は毎週末に成ると

遊んで歩いていたな、カジノやディスコに繰り出していたな。

それと最初に彼(専門家)に会った時の事を思い出すと俺笑ってしまう。

お前は、彼が住んでいる所を紹介された時に“サンフランシスコ”と言われて

お前、この人、アメリカから来てるのかと、思っていただろう。

俺、お前の顔を見て噴き出したよ」

 

「うん、カリブ海を挟んでアメリカ大陸だからな、“サンフランシスコ”と

聞いた時は、アメリカのサンフランシスコを思い出した、

ドミニカにサンフランシスコと言う地名があると思わなかったからな。

誰でも来たばかりで“サンフランシスコ”と言われたらアメリカの

サンフランシスコを思い出すと思うよ。

でも、本当の地名は“サンフランシスコ・デ・マコリス”と言うのだと

聞いて納得したけど、最初は何故にアメリカから来るのかと思っていた」

 

「馬鹿だね、お前は、どう考えてもアメリカから来るわけがないだろう

あれだけ頻繁に来るのだもの、ドミニカ国内だろうが、

ドミニカ共和国はアメリカに占領された時期もあったからな、

だから道路の名前もアメリカの人名が使われて居るじゃないか、

お前の住んでいたマンション前の道路も、アブラハム・リンカーンて

言ってたし、別な道路にはジョン・F・ケネディという名前もあるしな、

ま~、来たばかりだと分からないかもしれないな」と

馬鹿にした言い方をしたのである。

 

「確かにアメリカの影響なのか、アメリカの系統の名前は多いよな。

それは当たり前かもしれない、コロンブスが最初に発見した島だからな

それでラテン語系の地名がアメリカにあるのだと思ったよ。

ドミニカ共和国がある島は、エスパニォル島と言うのだもな。」

 

「お前ね、ぜんぜん勉強もしないで来たのだな、普通の人は

自分が海外で生活する場合は、色々情報を集めて来るよ。

お前は舐めてるよ、外国生活をだから騙されもするのだ。

あきれた楽天家なのか、ただの馬鹿なのか分からない奴だな、お前は」

またも始まった私をコケにする口調で。

 

確かに私は日本で応募する時に、コンピュータ関係で幾つかの要請国があり

単純にカリブ海は綺麗だと思って、ドミニカ共和国を選んだ。

言葉の事もスペイン語などと分かっていなかったし、

日本の嫌な思い出から逃げ出したいのと、日本独特のシガラミを

嫌っていたから、海外に出たかった部分もあった。

ただ、私は若い頃から海外に出たいと思う気持ちが強かったので

それが実行される機会が出来たと思っていた。

「確かに、お前の言う通り俺は楽天家だよ、あまり深くは考えないで

実行に移すタイプだろうな、だから知らない外国にも行けたのだと思う、

日本で知人の多くに“言葉も分からないのに良く行くね”と言われた

でも俺は行けば何とかなるさと思って来たから、深くは感がえていないし

決まったら逃げられないから、その国の事もザッと調べてだけだよ」

(93)

変な奴2-17

5月 13th, 2014

奴は「お前は言葉も、ろくに話せないのに相手を理解できたか?」

「確かに、お前は言葉を覚えようとして、誰かれ構わず話しかけていたよな

それで覚えたが、文法的には問題があるだろう。

お前が話しかけたのは、靴磨きの子供や道端で屋台のおじさんなど

それで覚えたから敬語は無理だろう?」

 

「確かに日本で習って行ったが、ドミニカに着いたら早口で分からない。

日本で教える時は単語ごとに、ゆっくり言ってくれるので理解できたが

あちらでは単語と単語の間の接続語も、続けて言うのと

早口なので理解出来なかった。

それで相手の話している事に慣れるために、片言のスペイン語の単語で

話しかけたのだ。

話す事より聞く事に慣れないと生活できないと思ったからね」

 

「そうだよな、2年間も生活するのだから、言葉が分からなければ

大変だよな。

それで、お前は自分なりに考えたのだな。

でも、それで騙されて損をしたではないか。」

 

「確かに損をした部分が大きかった、だが逆に4年間も付き合える人を

得た事も出来た。

最初は1週間くらいで、その良き友達を得たし、それ以外では

騙された部分が多かったな」と思い出しながら、奴に言った。

 

「そうだろう、お前は最初の頃は、日本の生活感覚で居たから

外国に来た感覚が薄かったのだよ。

お前は“新たな知らない土地でやる”などと、偉そうな事を言っていたが、

基本的に日本の風土で育った事は抜けきらないのだ。

それを、そのまま引きずっている、自分が居る事を忘れていたと思うよ。

ただ、無鉄砲に行動して居たに過ぎないのさ、お前は」

と説教を始めた。

 

私は確かに40数年以上日本で生活して、海外と言えば旅行くらいで

そこに住みついていたわけではないので、日本の習慣が抜けきれなかった。

その為に、あちらでは騙されて、いくら損したか分からない。

私は2年契約であったから、2年たったら帰りたいと思っていた。

こんな国で生活は出来ないとも、最初の頃は思っていたが

最初に知り合った良き友の家族に、大いに助けられて

持ちこたえていた部分が多かった。

「でも、俺は仕事だけは終わらせたいと思っていたから、我慢したな」

と答えると

 

奴は「お前、違うな、お前は最初に良き友を見つけたから

仕事が出来たと思うよ、そうでなければ任期途中で帰国していたかも

知れないと俺は思っていた。」

 

「そうかもしれない、最初に騙された時は派遣先の別な部署の

知り合いからだったからな、“アミーゴ”という言葉に騙されたのかも

日本語に訳すと、誰もが“友達”であると感じるのだが

それが曲者なのだよな、俺は日本的感覚で友達と思っていた

それが違っていたし、そこで大損をしたな」

 

「例の自動車事件か」と奴が言って来た。

『海外珍滞在記』に書いてある事件である。

 

「そうだ、だが、あちらの国では個人的問題に関係部署の連中や

上司は関わらない。

日本だと注意などするが、注意もしないし、俺と、そいつの間で

起きた事なので、自分たちで解決するのが当たり前、

他の同僚も知らん振りが当たり前、相談にも乗ってくれなかったな」

 

「ま~、最初だからしょうがないにしろ、お前は日本的感覚で

生活していたのだよ、お前の周りはドミニカ人ばかりだろう。

そんな中で仕事をするという事は、その環境に慣れないと

出来ないだろうに、それでも2年契約が、4年に成ったのは、おかしいな!

そんなに騙されたりして、良く4年も居たな」と

怪訝そうな顔をして問いかけて来た。

(94)

変な奴2-16

5月 12th, 2014

奴は「お前、今日はずいぶん分かった事を言うじゃないか。

お前がドミニカ共和国で貧困の、若い子たちに援助して

学校へ行かせたりしたが、それが何処まで自分自身に満足できた

自分では満足できなかっただろう」と言って来た。

 

私は「確かに満足出来なかった、むしろ中途半端な事を

しているように思えた、本当に面倒をみるなら最後まで

見届けるべきだと思った。

私の場合は任期が決まっていたから、その間だけは見て上げられるけど

最終的に任期が終了すると日本に帰ってしまう。

本当にやってあげるなら、最後までやって、

初めて、やって上げた事に成るのだとおもった、

中途半端にやるなら、はじめから手を出さない方が

良いのかともと思ったが、それにも限界があるよな」と

自分が反省していた事を、奴に言った。

私は『海外珍滞在記』にも書いたが、貧しさから家庭の為に働く子に

援助して学校へ行かせるが、最終的に、お金が手っとり早く稼げる

風俗に戻ってしまうのが殆どだった。

それには日本の戦後間もなくの頃と同じで、

社会環境が整っていないので働く所も少ない。

その為に貧困格差が大きく、良い所に就職するためには

コネを使うしかない。

結果的に貧しさから抜け出せない環境なのである。

私が経験した日本の戦後と同じような環境である。

 

奴は「お前は幸運にも、最先端の技術を取得したから良かったが

世の中は、そんなに甘くは無いのだよ、

お前の場合は日本のコンピュータの初期の頃だから

色んな面で得をしたが、お前が、そこまでに辿りつくには、

どれだけ努力した他人の倍は努力したろう。

それを他人に押し付けても駄目なのだよ」と

分かった振りをした返答が返って来た。

 

私は、またもや頭にきた。

「お前ね、俺の努力した事を他人に押し付けていると言うが

俺は押し付けていない、ただ、その苦労を自分なりに知っているから

相手にも援助して助けたいと思っているだけだよ」と

多少語気を荒げて言い返した。

 

「そうかな、俺には自己満足にしか見えないけど、

相手は貧しいから援助は受けるよ、

きとくな人も居る者だと思って受けるさ、

だが、お前は相手が学校に行くまで見たか?見ていないだろう

相手からすると良い金ヅルだったかもしれないよな、

気前良く、お金を出してくれるのだもの

俺だったら、こんな人の傍によるよな」と

せせら笑う様に言うのである。

 

私も腹が立ったが、自分なりに思うと、相手の言う事を信用して

お金を出していた部分があるので、それには言い返せなかった。

奴の言う様に本当に、良い金ずるだったのかもしれないと

思える部分はあったからだ。

(101)

変な奴2-15

5月 11th, 2014

私も、それには弁解できない。

自分でも金銭感覚に関しては、考え方が甘い事は分かって居たから

奴に言い返せないのである。

私は良く「蝦夷っ子は、宵越しの金は持たない」と江戸っ子に例えて

北海道生まれなので言っていた。

他人の金銭に対しては厳しくするのであるが、自分の事に関しては

カラッキシ駄目なのであるから、奴には言い返せない。

 

奴は嵩にかかって来て「お前は、あればあるだけ使うよな、

計画性が無いから、企業のトップには向いてないと自分でも

分かったから、会社を渡したのだろう、確かにお前はNO2向き

NO1には向いていない、そんな奴だから金も逃げて行くのさ」

言い放って来た。

「海外に居た時も、貧困層の住んでいる所に出入りしていたな

危険を感じないのか、皆に言われていた“危険だから一人で

出入りしないように“と言われても、懲りないで出入りしていた」

「俺も危険だと思ったよ、でもお前は止めなかった」

 

「確かに貧困層の所に出入りしていた、そこには自分の経験からくる

危険か危険でないかの、匂いを感じるのだよ、

俺も餓鬼の頃は悪だったから、自分なりの壁を作りながら

そこへ行くのさ、前にも言ったが経験は貴重だよ

経験しないで理論だけで行動を起こしても、相手の気持ちが

分からないし、表面的な物しか分からないと思うのだ

だから私は相手の中に入って行って、相手を理解するように

しているし、システムを構築する時も、必ず現場に入って

現場の仕事をさせて貰ってから、分析するようにしている。

途上国でも、そこに溶け込まないと駄目だと思うのだ。

それで初めて相手を理解して、どの様な環境なのか

どの様に私たちと生活習慣が違うのかを肌で感じるべきだと思う」

 

奴は「お前、屁理屈か、確かに経験は大切だが、危険を伴ってまで

やる事か疑問に思う」

「お前はドミニカ共和国で、2度ピストルを突き付けられているよな

そんな危険を冒すのも問題だ、人は命があるから仕事も色んな事も

出来るのだぞ」と、またもや説教をはじめて来た。

 

「確かに命があるから物事が出来る、俺の考え方が

変なのかもしれないが、本当の仕事や物事をやる時は、

その中に入り込んでやるべきだと思っている

そうしなければ自分自身にも学ぶ面が無いのではないか?」

と私は奴に問いかけた。

 

奴は「だから駄目なのだよ、お前は、確かに入り込む事は悪くない

だが相手の考え方も尊重しなければ、お前だけの考え方で

進めるべきではないと思うよ、お前は真面目なのだけど、

その真面目さが相手を傷つける可能性もある事が分かってない」

「お前の考え方で行くと、お前は満足するかもしれないが、

相手にとって負担を感じる場面も多いと思うよ」と返答して来た。

 

「確かにな、自己満足しているのかもしれないな~自分は」

と反省の言葉を言うと、

 

(30)

変な奴2-14

5月 10th, 2014

奴は「待てよ、話は終わっていないぞ、お前が海外でボランティアとして

行った状況を説明しただけで終わりか?」

「そんな中途半端な事だから、俺に馬鹿にされるのだよ」と

何時もの奴に戻った言い方をして来た。

 

私も立ち去ろうと思ったが、奴に突っ込まれるのが嫌なので

改めて奴と向き合って話を始めた。

「だから説明したように、確かに行き詰った部分もあったが

技術屋が、これが俺の最大の仕事だと思ってやろうとした事が

クダラナイ事で駄目になった事と、人間関係に疲れていた自分が

新たな知らない土地で、やるのも良いかなと思ったから

海外に応募したのだよ、それと短大や専門学校の生徒たちに

色んな面で学ばせて貰った事も生かせると考えたのだ。」

 

奴は「ていの良い逃げ口上を言っているな、そこがお前の悪いとこ、

結果的に逃げたのだろう、素直に逃げましたと言えよ。」

 

私は内心腹が立ったが彼の言っている事に

一理あるので言い返す事ができなかった。

基本的には逃げたのかもしれない、日本の会社組織に対して

自分は合わない傾向はあった。

一匹狼で仕事をやって来ていたし、若い時に独立もして会社も興したが

自分はトップの器でない事も分かり、人を育てる事も出来なかった。

自分は技術でしか仕事が出来ない、お金儲けなど出来るタイプでは

ないのである。

それを奴は知っているから、私にキツイ事も言えるのである。

「確かに、お前の言う通りかもしれないが、

自分は金で動くタイプではない事は知っているだろう。

同時に金儲けも出来ない、取り得は、仕事に対して真面目だったから

仕事は付いて来た。

同時にやはり母親の影響が強いのかもしれないな。」

 

奴は「確かに、お前の母親は“馬鹿が付くくらいお人好しだったからな”

それに似たのだろう」

 

「そうだな、それが俺の基本なのかもしれない、俺は母を尊敬していたからな

だからボランティアのような事も考えたのだと思う」

 

奴は「お前の良いとこは、苦労した事を生かせている事かも知れないが

駄目な所は家庭を守れない事だな、二回も離婚するのだから」

 

私はこの野郎、好き勝手な事、言いやがってと思いながら

「分かっている、家庭を守れなかった分、他人に尽くして

自分自身でチャラにしているかもしれない、でも自分の為には

何も残していないし貧しさだけが残ったな」

 

奴は「それで金を残していたら、ただの悪党だよ、

お前が言う“金は天下の回り物”そんないい加減な事言っているから

何時まで経っても、金に縁が無いのだよ。」

 

「お前、それは俺の弁解で言っているだけで、本心は金が欲しいよ

でも、俺の場合、金を持つと使ってしまうし、困っている人が居れば

その人に使った部分もある」

 

「確かに海外でも随分、仕事以外で援助していたな、

それは知っているが、お前は計画性が無い、金に対しては特に駄目だね

良くそれで、システム計画を作成して居たね、あきれるよ」

と馬鹿にした顔をして言ってきた。

(121)

変な奴2-13

5月 9th, 2014

「そうだな、日本での嫌な事をふっ切れたようだったな、

あの忌まわしい人間関係から、今度は人種も習慣も違う国に

行けるので、気持ちは楽だった」

 

奴は「でも、言葉の問題があるだろう、それにお前は

あの時3週間の語学研修を1週間サボったじゃないか

それにスペイン語なんて、日本じゃ、あまり使わない言葉なのに

サボるとはケシカランやつだよな、お前は」

 

私は「確かにサボったよ、1日、缶詰状態で

スペイン語ばかりやらされていたのはキツカッタ」

 

「でも、サボっても行けたのだ、お前は楽天家で変な所に

ルーズだよな、それだからシステム屋を長くやれたのかもな・・」

 

「確かにシステム屋は、何時もシステムを考えていてバグが出ると

それが頭から離れない、なぜ、なぜと頭の中で回転していて

寝ている時に急に眼が覚めて、起きだして考えたりする。

それが続くのだよ、それで身体を壊した奴を沢山見て来た。

私も最初はそうだったな~、でも、それでは身体が持たないと思って

ある時から変えたのだよ」

 

奴は「どの様に変えたのだ、簡単に変えられるか?」と問うてきた。

 

「確かに簡単ではないよ、自分の思考環境は、人間は仕事では

ある程度固定化されていると私は思う。

だけど、変えなければ身体が参ってしまう。

それを考えると、やり方を変化させるしかないだろう。」

 

「お前、屁理屈かよ・・」

 

「いや、屁理屈では無くて、自分の身体の事を考えてだよ」

技術屋は考えると一直線になり、周りが見えない傾向があると

私は思う。

そこには車のブレーキに遊びが無いのと同じで、

ブレーキを踏むと急激に止まる、その反動から

前のめりに成るように、自分の身体をブツケテしまう。

それによって自分自身をコントロールできないで

身体を壊すのだと思う。

だから、私は仕事で問題が起きて空回りしている時は

完全に仕事と違う事をやるようにした。

それによって思考を変えて見ると、意外と問題だった事が

解決する事が多かったのである。

そんな事を考えながら、奴に言ってやった。

「お前みたいな奴居たから、俺は自分を見直せたのかもな~?」

 

すると奴は「そうだろう、俺はお前の為を思って、何時も一緒に

居てやっている、感謝しろよ」とホザキヤガルのである。

 

私は「感謝はしている部分は多少あるが、自分を見直す事は出来たな。

だけどウザイ奴だと思っては居るよ」

 

「何だとウザイとは失礼な、お前は俺が居るから反省したり

自分を見直す事が出来るのだ、それを、その言い方は無いだろう」と

怒った口調で言いだした。

 

私は「何時もの、うるさい奴に戻ったな、それがウザイのだよ」と

言い返して、立ち去ろうとした。

(129)

変な奴2-12

5月 8th, 2014

奴は「お前は、企画力はあるな、でも、それが実行されなければ

何にもならないけど」と、何時もの嫌味を言いだした。

 

「そうだな、企画は実行されて初めて生きるよな、

でも今回の大手ゼネコンで学んだ事は、企画が採用されるのも

バックがあるからさ、そのバックが無ければ、どんな良い企画でも

生きないし、採用されない」

 

奴は「それは、どんな意味だ」と不可思議な顔をした。

 

「それはね、あの企画でも大手ゼネコンだから企画案が

採用されたのさ、会社と言うバックがあったから通産省も

採用した、採用された時に通産省の人が言ったのは

“大手ゼネコンさんだから、良い仕事をやってくれるでしょう”

それは会社が大きいから大丈夫でしょうと言う意味だろう」

 

「確かに、会社と言う名前で仕事をするのだから当たり前だよな」

奴は、うなずいた。

 

「そうだろう、仕事は企画力も必要かもしれないが、会社の名前も

必要なのさ」

「特に日本はそうだな、俺は今回、海外で仕事をしたが海外は

意外と企画が先行している感じがした。」

 

「そうか、確かに日本は大手企業に勤めていると、それだけで

信用するもな、それが辞めたら、見向きもされないのが現状だろう。

お前の言う通りだな」と奴はうなずきながら言った。

「でもODAの企画案は、お前が考えて採用されたのだろう」

 

「うん、そうだけど俺たちの関係で(シニア専門家)では

採用されたのは、初めてだった見たい」と私は答えた。

「この関連は日本政府の外部機関で初めて行う試みだったので

私たちが最初で、それまでは青年と専門家は

長くやっていたみたいだが、シニア専門家と言っても

専門家との格差は大きかったな、俺たちには資金的援助は

少なかったよ、同時にODA関係も専門家が重点的に採用され

俺たちは青年と同じような扱いだった」

 

奴は「それでもやったのだろう、お前の負けず嫌いの面が

出ているよな、日本を離れてどうだった」と問いかけて来た。

(128)

変な奴2-11

5月 7th, 2014

奴はあきれ顔で「大手ゼネコンだな、メンツもあるのだろう」

 

「そうだな、通産省もOK出しているし、システムは俺の頭の中で

相手はどうする事も出来ない。」

「俺からすると、俺に仕事だけ、やらしてくれればいいものを

あんな、くだらない事でイチャモン付ける馬鹿な男も居るのだよな」

「あいつの頭の中は、女と酒と出世だけだったのではないか、

建設関係しかやって無い人だから、孫・ひ孫等下請けを苛めて

いただけだったのだろう、あの人は」と嫌な思いをした事を

考えながら奴に答えていた。

 

奴は「その後はどうしたの?」と問いかけて来た。

 

「俺は悩んだよ、考えたシステムは俺にとっては最大の仕事だし

それは今後出来るか分からないから、諦められない部分があった。

でも人間関係で疲れていた部分もあり、自分の気持ちが

崩れかかっていたな、あの頃は」と、ボーとした目をして言った。

 

奴は「行ったのか東京に?」と問いかけて来た。

 

「いいや、どうせ行っても、また揉めるような気がしたし

自分自身の中で気力が薄れていたから行かなかった。

それと仕事上の人間関係に疲れていたから、どうしても来てくれと

言われたが、断った」

 

奴は「そこまで揉めて行っても、上手くは行かないだろうな」と

慰めるような眼をして言って来た。

 

私はこいつにしては珍しいと思いながら、奴を見た。

 

奴は「それからどうしたのだ? それでシステム計画はどうなった」

 

「うん、俺も自分の計画したシステムには未練があったが、

後は相手にしなかった、その時に新聞でシニア専門家の募集が

目に入ったのだ、それで日本が嫌になったから外国に行こうかなと

考えたのさ」

 

「それで海外に行ったのか、考えが単純だな」

 

「もともと、俺は単純さ、自分でも思うけど餓鬼が大きくなっただけの

人間なのかもしれないと思う時があるも、自分で、

俺、思うけど男は餓鬼だよ、考えて見れば、あの上司だって大人げないよ、

ただ、駄々をこねてるだけで、大きなシステムを駄目にしたのだから。」

 

奴は「それで、システムはどうなったのだ?」

 

「うん、俺はシニア専門家の試験を受けて、1次。2次、語学、面接で

合格してドミニカ共和国にシステムを教えに行く事に成って、

1か月スクーリングや語学研修が東京であったので、

問題になった彼女に聞いたら、あの計画から撤退したと言っていた、

どう考えても詳細部分は、俺の頭の中にしか入っていなかったから

出来ないだろう、だから100万でもOKしたのだろう」

 

奴は「そうかシステムは駄目になったのか、それで、お前は海外行きか」

 

「そうだ日本で、あんなクダラナイ事で、自分の最高のシステムを

作りたかったのに、駄目になった事は、俺にはショックだった。

会社組織の中で生きて行く為には、そんな事も我慢しなければ

組織の中で仕事が出来ない事は分かっているが、

あんな奴にオベッカ使って仕事はしたくなかったし、

俺も技術屋としてプライドがあるから

それなら教えていた経験を途上国の人に、生かして貰う方が良いと思った

俺も学生に教えて自分なりに教える喜びも味わったし、

学生から多くを学んだ部分もあったので、海外で教えようと思ったのさ」

 

「おい、お前も少しは大人になったな、でも、企業なんて色んな人が

居て成り立っているのだから、お前も自分ことだけを考えてるのは

少し大人げないぞ」と、またもや、何時もの奴に成って説教を始めた。

 

私も負けずに「お前、今回は俺に全部聞いて来たな、

前はお前が説教じみた事を言っていたくせに、今回は全部

俺に言わせたな」と切り返した。

 

すると奴は「お前に言いたい事を言わせないで、説教すると

お前は口をつぐむだろう、そうすると今後、説教出来ないからな

それで今回は、お前に言わせたのだ」

「そうだ海外での事は『海外珍滞在記』を、お前書いたのだよな、

200ページと長いな」

「良く書いたよな、お前みたいな奴が、海外でもODAの

計画案作成して、それが通ったので2年契約が4年に成ったのだって」

 

「そうだ、ODAの計画案でドミニカ共和国の政府機関と

国内の大学をオンラインで結び、業務の簡素化と速効化を行う

計画案を作成して外務省からOKが出た。」

(108)

変な奴2-10

5月 6th, 2014

私は「本当に頭にきて、札幌に帰ったのだ、その頃は札幌に

マンションを借りていた。

函館に帰って車いす人達にボランティアやっていたが、

私財も無くなり、仕事をしなければと思ったが

函館じゃ仕事が無いので、札幌の専門学校から話があって、

移り住んで働いていたが、そこで問題があり専門学校を辞めて

商工会議所が運営している専門学校から、情報処理の国家試験の

請負役的で教えて、実績を付けたら他の専門学校と短大から

口が掛かって来て教えていた。」

 

奴は「そこで東京のシステム会社からハンテングされて

札幌の支店長をやってたのか」と私の過去を言いだした。

 

「そう、でもハードだった、札幌と湘南の2か所を任されて

1週間ごとに東京、札幌の生活を繰り返していたので

体力的に大変だったし、もともと血圧が高いので

体力的に問題があったが、何とかやっていたな、あの時は」

 

奴は「それが、何故に大手ゼネコンなのだ?」

 

「オイルショックがあったろう、あの頃、多くのシステム関係の

会社が窮地にたって、倒産や撤退するのが多かった。

私の勤めていた会社も札幌から撤退した。

その頃、専門学校で教えていた情報処理試験に合格した連中を

会社に入社させていたのだが、皆、東京には行きたがらず

私も入社させたのに、責任を感じていたし、自分なりのけじめを

付けたくて他の会社などに紹介したりしていたのだ。

その頃、懇意にしていた会社に紹介したりしていたので

私の住居地は札幌だった。

その中の取引している会社から、東京で仕事をしてくれないかと

頼まれて、東京に出たのだ。」

 

奴は「そうだよな、急成長したコンピュータ業界は体質的に

固定的な資産を持てないというか、人材が資産だったから

価値のある資産を持っていないから、倒産や縮小して我慢した

時期だったよな、お前が良く知っているか、

お前は“この業界は紙と鉛筆と自分の頭があれば稼げると”

良く言っていたよな、だけど、お前は金儲けが下手なので

自分の会社は手放したよな」

 

「それは余計なお世話、俺は技術屋なので、自分の技術を

伸ばしただけだよ」と不貞腐れて言った。

 

奴は「話は前に戻すけど、例の大手ゼネコンはどうしたのだ?」

 

「俺は頭にきて、札幌に帰って来たのだ」

 

奴は「それではシステム未完成か?」

 

「うん、でも札幌まで迎えに来た。」

 

奴は「馬鹿か、また、迎えに来たのか?」

 

「俺も、相手にしたくなかったので、断った、

それでもしつこく言うので、分かりました月100万くれるなら

やりましょうと言ったのだ」

 

「お前馬鹿か、月100万て、20年以上前で100万と言ったら

相手が出すわけないだろう」とあきれ顔で言って来た。

 

「俺も断る為に言っただけだ、相手は1度、東京に帰って相談すると

言って来た、当たり前だよな、そんな膨大な金を即答できないからな」

「でも、それで良いと返事が来たのだ」

(131)

変な奴2-9

5月 5th, 2014

「ところが、また、会社から迎えに来たのだ」

 

「え~、またか」

 

「そう、システムが開発できないからだろうが、同時に

通産省が絡んでいるので、大手ゼネコンの立場が無くなるからな」

私は「お前、知っているか、大手ゼネコンのやり方」

 

奴は、好奇心の目で「何だ、大手ゼネコンのやり方って?」と

問いかけて来た。

 

「それはね、各大手ゼネコンは省庁に無給の人を張りつかせているのだ。

それで各省が出す公共事業を貰い受ける、各大手ゼネコンが談合の前に

省庁から出る公共事業を振り分けているのさ、同時に各省庁は

その連中に詳細部分を作らせて、自分たちが作成したように思わせている。

これが省庁のやり方、大手ゼネコンは、それを当たり前にやっているし

各省庁も、当たり前だと思っている。

言うなれば癒着だよ、この現実は国民には分かっていない。

官庁が関わる公共事業は、事前に大手が計画案を作成して省庁が公表する。

受注は大手ゼネコンが直接受けて、実行するのは、ひ孫請け等である。

談合の前に各大手ゼネコンの話し合いが行われているのが実情なのさ」

と私は自分が見た事を奴に言った。

 

奴は「え~、それ本当か、各省庁に大手の社員が入っているのか、

それも無給で?」

 

「俺が仕事を、やっていた頃はそうだった、今も変わらないだろうな」

と私は答えた。

 

奴は「本当か、でも国民は分かっていないよな、そんな事」

 

「当たり前だろう、分かったら大変な事に成る」

 

奴は「所で、話は前の戻すが、お前はどうなったのだ」

 

「うん、システムを完成させたいから、会社に行った、

そこで私の上司は昇進に成り、私の直接の上司は変わったのだ、

私はこれで仕事もうまく行くと思った」

 

奴は「思ったって?」

 

「俺と直接の上司は、うまくやっていたし、気があった。

所が逆に、それが前の上司は、面白くないのだろう。

会う毎に俺を睨んでいたな、でも俺は、仕事さえ出来れば

良かったので知らん振りをしていたが、

前の上司に会議室に呼び出されたのだ。」

 

「何で前の上司に呼び出されたのだ?」と奴は怪訝な顔をして

問うてきた。

 

「俺にも分からなかった」

 

「なんか言われたのか」

 

「うん、会議室で前の上司は“俺はお前が嫌いだ、お前と会うのも

嫌だと“と言って来た」

 

「それは、何故に、そんな事言うのだよ、

お前とは直接の上司で、なくなったんだろう」

 

「そうだよ、私が今の上司と、楽しそうにやっているのが

面白くないのだろう、本当に気があっていたからな」

 

奴は、「それで、お前は前の上司になんて言ったんだ」

 

「うん、私もあなたが嫌いです、そんなに嫌いなら

私は出て行きますと答えた」

 

奴は、「またか、お前も懲りない奴だな、今の上司とは

うまくやっているんだから、そんな相手、うまくいなして置けば良いのに」

と“お前はどうしようもない、融通利かずだな~”という顔をして

言って来た。

 

私は「確かに、いなして置けばいいのだが、毎日顔を合わせるのは

間違いないし、そこまで言うなら、こちらも意地があるからな、

それで今の上司に、会議室の事と前の事件の事を説明して

会社を出て来たのだ」

 

「またかよ」奴は、お前は馬鹿かという顔をして、

あきれた口調で言って来た。

(128)

変な奴2-8

5月 4th, 2014

奴は「そうだよな。お前は仕事人間の融通が利かない男だからな」と

私を見透かした目で言って来た。

 

確かに奴の言う通り、私はどちらかと言えば仕事人間であろう。

それは前にも書いた彼女の死から、自分は逃げていた。

その逃げ道が仕事であったような気がする。

 

奴は「それでお前の計画案が始まったのか」

 

「うん、プロジェクトも作られて、俺の肩書もシステム副部長になり

始まったのだが、プロジェクトの中に上司の腹心の部下が

数人入れられたが、私は、これは想定していたので、

システムさえ開発できればと思っていた」

 

奴は「そうか、始まったのか、でも、やりづらく無かったか

腹心の部下が入っていて」

 

「想定していた事だから、計画案は私の頭の中にあるから、

詳細部分まで来たら、私をお払い箱にしようと思っているのは

分かっていたし、ただ、このシステムだけは完成させたかったから

受け入れた、同時に俺の名前が残れば良いなとは思っていたけどね」

 

奴は「それは無理だろう、大手なんて契約社員なんて切り捨てだよ」

 

「分かっているが、自分の計画したシステムが動けば満足じゃないか

システムは全国規模で使う事を想定していたので」

 

奴は「お前が、そう思うなら良いじゃないか」と、

あきれ顔をして言って来た。

 

私はプロジェクトが立ち上がった時に、上司の腹心の部下が2~3名いた

その時は腹心の部下を入れたのは、詳細設計が出来上がったら

私をプロジェクトから外すなと思っていたし、それまでは私から

計画案と詳細設計書を作らせるだけであろうと思っていた。

それでも、これほどの大きな仕事は、今までやっていなかったので

どうしても完成させたかったのである。

 

奴は「それで始まったのか」と問いかけて来た。

 

「うん、でも、またもやトラブルさ」と私は答えた。

 

「え~、またトラブルか? どんなトラブルだ?」

 

「その頃、俺は月額50万貰っていたんだ」

 

「え~、50万、20年以上前だよな」

 

「そうだよ、それが40万しか寄こさなかったんだ」

 

奴は「何でだよ、10万少ないじゃん」と怪訝そうな顔をして問う。

 

「俺も分からないから聞いたのだ、そうしたら、あきれた返事が

帰って来たのだ」

 

「何て返って来たのだ、それも10万は大きいな」

 

「うん、あの10万はペナルティ分だって言うのだ、

何のペナルティですかと、俺は聞いた、ペナルティを

受けるような事はしていなかったので」

 

奴は怪訝そうな顔をして「何のだよ」と聞き返して来た。

 

私は、またもや嫌な事を思いをしながら

「彼女の問題で、私が憤慨した事でと、ぬかしやがるんだ」

“俺は悪くないし、間違った事をしていないのにペナルティは

無いでしょう、それに、銀座で飲んで、その件は終わったのに、

これは問題ですと言って“俺は会社を出て来たんだ。」

 

「え~、また会社に行かなくなったのか」とあきれ顔で奴は言い

「その上司、彼女が好きだったのでないか?良く飲みに連れて

行って言ってたよな」

 

「そうかもしれないが、俺は悪くないと、思っていたから

会社に行かなかった」

 

「それで、システムの方はどうなった」

 

「俺が行かないし、まだ始まったばかりで概要も

出来あがって無い状態であったから、動いてないも同じ」

 

「それで、お前は会社に行かなかったのか」

 

「行く気がしないよ、あんなくだらない事を引きずる奴と

仕事がしたくなかった」

 

「じゃ、システムは終わりか」と奴は言いながら

「お前の意気込みも、そんなものなのだな」と

あきれ顔で言って来た。

(120)

変な奴2-7

5月 3rd, 2014

奴は「行ったのか?」と問うてきた。

 

私は「仕事があるし、俺の立案した計画も通産省と面接も終わっていたので

俺が行かないと進まないから行ったよ」とぶっきらぼうに言った。

 

奴は「お前、会社に行って、怒鳴った上司とは、どうなったのだ?」

 

「別に俺は悪と思っていないから、誤りもしないし普通に仕事をしていた、

だけど上司はエレベータの中で二人きりになると嫌味を言っていたが」

 

奴は「どんな嫌味だ」と、せかして聞いて来た。

 

「お前、彼女と、どんな関係だとか、よく話をしているよな、

仲が良いのか」と言っていたな。

「俺は友達だし、プロジェクトで一緒に仕事をしていたので」と

はぐらかして答えていた。

「そうしたら上司が、俺も悪かったから、今晩、飲みに行こう」と

誘って来たのだ。

 

奴は「上司からか?なぜ、お前を誘ったのだ」と問いかけて来た。

 

私は「通産省の案件は、俺が計画案を作成したから、その案件の為

俺が必要だからだと思うよ」と答えながら、

あの時の案件を思い出していた。

 

確かに、あの案件は難しい計画であったし、その頃では最先端を行っていた

将来的展望も考えていたので、時間はかかる案件であった。

だから年間1億で、3年間で構築するシステムであった。

案件計画者の私しか詳細部分は、分からなかったのである。

 

奴は「それで飲みに行ったのか?」

 

「うん、行った、それも銀座の一流クラブに・・・」

 

「え~、銀座のクラブにか・・・」

 

「そうだよ。でも俺、そんなところ行った事が無いので

落ち着かなかったし、早く帰りたかった」

 

「お前ね、めったに行けない所で綺麗どころが揃っているに、

早く帰りたいは無いだろう」

 

「俺には似合わないよ、その辺の居酒屋あたりが似あっている」と

謙遜ではなく正直に、その時はそう思っていた。

 

奴は「それで手打ちと言う事に成ったのか?」

 

「うん、俺はそう思っていた」

「だが、会社で会う毎に、彼女との事を話すので、

俺は言ったんだ」

 

奴は「何て言ったんだ」

 

「私は仕事のことしか考えていませんから、

それに彼女とは友達だし、彼氏が居る事も話したりしますので

彼女とは関係ありません、だから仕事をさせて下さい」と

上司のしつこさに、うんざりしていた。

(141)

変な奴2-6

5月 2nd, 2014

そうすると奴は「おい、それからどうなったのだ」と

せついて来るのである。

 

私は重たい口調で「それからが問題さ、新宿に出て2次会の2軒目で

大揉めに成った」

 

奴は「何、何、どんな事で揉めたのだ」と嬉しそうに聞いてくる。

奴は聞いて楽しいかもしれないが、私は思い出すのも嫌な気分であった。

 

私は重たい口調で「2軒目で上司は、お酒も相当飲んでいたので

酔った勢いなのか分からないが、俺たちに絡み出した」

 

「何て絡んで来たのだ」と、奴は好奇心旺盛に聞いてきやがる。

 

「上司がお前ら二人、なぜ帰ろうとした、二人でラブホテルに

行こうとしたのだろうと言いやがったのさ」と

私は吐き捨てるように答えた。

 

「それから、どうなったのだ」と奴はニャつきながら私を促す。

 

「そうしたら、彼女が泣きだしたのだよ、私は頭にきて

“なんて事言うのですか”と怒鳴った」

確かに彼女とは、プロジェクトで一緒に仕事をしていたの事もあるので

会社でも良く話をしていたのである。

 

上司は彼女を気にいっていたのか、よく飲みに連れて行っていたのは

私も知っていたが、彼女には彼氏が居て、どんな人かも話を聞いていたので

女性としては、私は見ていなかったし、彼女も私を男性として見ていないが

仲の良い同僚の関係で、その頃はプロジェクトも別々だったので

あまり話をする事は無かった。

 

そんな内容を奴に説明しながら「俺は頭にきて上司を

怒鳴りつけて帰って来た」

 

奴は「お前もやるね、そんな勇気あったのだ」と馬鹿にした口調で

言って来たのである。

 

私は「彼女が泣きだしたから、俺も我慢できなくなって怒鳴ったのさ

俺と彼女が、関係があるなら何も言わないよ、

ただの親しい友達なのだから、彼女がかわいそうだろう」と言うと

 

奴は「かっこいい事、やるじゃん」と茶化すのである。

 

私は「それに協力会社の人たちも居る前で、そんなこと言うか、

普通言わないよ、だから尚更、腹が立ったのさ」と言って

私は興奮気味になっていた。

 

奴は、それが面白いのか、またもや、けしかけるように

「お前ね、契約社員だろ、それが本社員の上司を怒鳴るとは

自分がどうなるか分かってやったのか」

 

私は「俺の問題より、彼女が泣いているのがかわいそうだったので」と

その時の状況を思い出しながら興奮していた。

 

奴は「お前が怒るのは分かるよ」と珍しく慰めの言葉を発した。

「それでどうなったんだ」

 

私は「俺は、そのまま店を出て来たから。

その後の事は分からない」と答えた。

「俺は次の日から会社行かなかったのだ、そうしたら会社から

2日くらいしたら迎えに来た」

(116)

変な奴2-5

5月 1st, 2014

あの時はシステム開発を任されていて建設省などの仕事を

していたのだ、大手ゼネコンだから仕事は官庁関係が多かった。

俺の上司はシステムが分からない建築関係から来た人で、

その人は官庁関係に顔が効く人であったし、

システムには疎い人だが接待は、うまい人だった、

その人は女性好きで毎日のように、女の子を連れて銀座や

新宿に飲み歩いていた人だったよ」

 

奴は分かった振りをして「そう言う奴居るよな、女好きで酒好きな奴ってさ、

特に建設関係は多いかもしれないな、そいつが、どうしたのだ」

 

「うん、酒が駄目な私でも、その頃は練習して少しは

飲めるように成っていたのだ、大手だから協力会社も多く

ある日、協力会社との飲み会を自社ビルの中にある

接待会場で飲み会を行っていたのだよ」

 

「それで、どうした」と奴は好奇心満々で聞いて来た。

 

私は面倒くさいなと思いながら、話を続けた。

 

「俺は前の日にプロジェクトの仲間と飲んだので、2次会は

行きたくないので、早めに抜け出したのだ、

その時エレベータの前で、前にプロジェクトで一緒にやっていた

女性が鉢合わせしたのだ、その子とは良く話をするので、

“あれどうしたの”と問いかけたのだ」

 

彼女は「ここの所続けて飲んだので、今日は帰ろうと思って」と

答えが返って来た。

 

その子は上司に良く飲みに連れて行かれる子だったので

昨日も上司と飲んだ事を、話をしながら、

「そうだよな、前の日、飲んでいたから、俺も今日は逃げるよ」と言って

あとは取りとめない話をしながら、二人で、エレベータで降りて

出口のエスカレータに乗って、話をしながら来たら

上司がエスカレータの上の階から何か叫んで居るのだ。

 

俺も彼女も“何を叫んでいるのか”分からずポカンとして居たら

 

上司が、「これから2次会に行く、お前ら二人でもう帰るのか」と

言って来たので、私は「昨日、飲んだので今日は帰ろうと思って」と答え、

 

彼女も「私も3日間位飲むのが続いているので、帰ろうと思っています」

と答えていたが、

 

上司は怒り出して「お前ら勝手だな、俺はこれから協力会社の人と

飲みに行くから、お前らも来い」と強制的に言われたので

私たち二人は2次会へ付いて行った。

 

私は、そこから話が重たくなるので、あまり話したくなかった。

(116)

変な奴2-4

4月 30th, 2014

奴は「でも、あの時に、ある人に言われたよな“売名行為”だと」

「人は、それぞれ考え方が違うから自分では良いと思っても

他人から見ると違う見方をされるのだよ」

 

「確かに言われた、でも自分は何も求めていなかったから

言った人を心の小さい奴だと思っただけだよ」と言ったが

あの時の私は“俺が選挙にでも出る気持ちがあるなら

売名行為かもしれないが、何の利益も考えていないのに、

そんな事をよく言うなと多少腹が立った“

 

その時は、私の私財で行っていたので、1年で挫折してしまった。

 

奴は「お前ね、自分を買い被って居たのだよ、あの頃は」

「自分の頭の蠅も追えないのに、ボランティアなんて考える事態が

間違っていたと思うよ、だから1年間で挫折したのではないか

俺からすると、自分を分かった人がやるなら分かるけど」

と私の顔を覗き込んで言いやがる。

 

私は奴の目を見ながら、言い返したいが、言葉が出なかった。

 

奴はたたみ掛けるように、「その後に海外にボランティアとして

行ったよな、だけど、あれは自分に、いきずまったかららだよな」

 

私は「確かに、いきずまった部分があった、大手ゼネコンで

契約社員として働いていて、通産省関連で良いシステム計画に

助成金を出す案件が来て、私の計画案が通った、1年、1億で

3年間で作る環境システムだったのだ」

 

奴が「なぜに、そのシステム構築できなかったのだ」

 

「それがクダラナイ事で上と揉めてね、あの事は思い出したくもないね」

と私が言うと

 

奴は「聞きたいね、どうせ、お前の性格だから上に文句を言ったのだろう」

 

私はムッとした顔をして「違う、俺は、あのシステムを自分の最後の

大きな仕事にしたかったのだ、だから気合も入っていた」

 

奴は「それなら何故、駄目になったのだよ」とたたみ掛けて言って来た。

 

私は「あまりにも、くだらないので話したくないな」と答えると

 

奴は「どうせ、お前が、語拓を並べたからなのだろう」と言って来た。

 

私は「語拓だと、違うよ、本当にくだらない事なのだ」と

奴の言葉にイラついて来た。

 

「それなら理由を言えよ、くだらないかは俺が判断してやるから」と

ぬかしやがるので、私は、その事を言いだした。

 

これは私の欠点であるが、相手に挑発されると乗っかってしまう。

(37)

変な奴2-3

4月 29th, 2014

私は奴に心を見透かされるのが嫌なので、自分から

話しかけないようにしていたら、

 

奴が「そう言えば、最近はボランティアに嵌って居るのだって

どう考えても、お前がボランティアされる立場だよな」と

せせら笑いながら私に言うのである。

 

私はムッとした顔をして、奴を睨むと

 

奴は「お前ね、自分が分かっていないでボランティアは無いだろ、

お前はボランティアに関して、考え違いをしているのではないか」

 

続けて奴はこう言った。

「俺ね、ボランティアを辞書で引いたら“自発的にある活動に参加する人。

特に,社会事業活動に無報酬で参加する人。篤志奉仕家。 「 -活動」“と

書いてあったよ」

「確かにお前は自発的の部分は、俺も認めるが、金も無い奴が

ボランティアしていますなんていえるのかな~、俺なら恥ずかしくて

言えないけど」と何時もの嫌味口調で言いやがる。

 

私は「そうかもしれないが、お金の問題ではないだろうと思うよ

気持ちの問題だと思うのだ、人はそれぞれの経験から、それなりに

優しさや労わりの心を学んで来ただろう、それを生かす事は大切だと

思うのだけど」と私は素直な気持ちで言った。

 

そうすると奴は「お前ね、それは考え方によっては押しつけであり、

お節介でもある部分もあると思うよ、人はそれぞれ違った考え方を

持っているのだから」

 

私は負けずに「人間それぞれ違うのでは、性格も違えば育った

環境も違うから思いも、違うのだよ」

 

奴は「それぞれ違うから、そこが難しい所だと思うよ」

「お前だって最初からボランティアなんてしようと考えたか?」

「自分なりの経験から、その方向に向かって行ったのだろう」

「確かに、お前が30代後半で車いすの人にボランティアで

PCを教えたのが始まりだったな」

 

「うん、あの時は専門学校で教えていたが、自分の故郷に帰って

車いすの人たちなら、動かないで仕事をする事が出来るから

PCは良いと思ったのと、自分なりにお金も持っていたからね」

「だから母の故郷でもあり、自分の生まれた所でもある函館で

ボランティアで教えようと思ったのだよ」

 

(120)

変な奴2-2

4月 28th, 2014

奴が「最近は調子がどうだ?」と上目使いで言う。

 

私は「普通だな、良い事もないし、これと言って悪い事もない

普通に暮らしているだけで、お金が無いのが悲しいけど」

と奴を軽視して言う。

 

奴は「お金は、お前は最初から無いのではないか、金儲けが出来ない

性格だからな」と言って来た。

 

私は確かに、お金に縁がない。

コンピュータが使われ出した頃からシステムをやっていたが、

当初は忙しくて、残業が月250時間という状態であり、

給料は高かった。

 

だが、その反動で、お金の使い方も派手になった。

家庭を持っていたので休みの時は家庭サービスで豪勢に遊んだ。

性格として貯めるという事が出来ない。

 

奴が「お前は、仕事は出来たが、お金に疎い性格だよな、

誰に似たんのだ」

 

「そうだな、母か父だろうな、どちらも金には縁のない人だったからな

母は良い処のお嬢さんだったし、父も網元に家に

生まれて派手な人だったから」私は、ため息をつきながら答えた。

 

奴は「お前は可哀そうな奴だよな、金に関しては稼げたくせに、

貯められなかった、それで今も貧乏暮らしか」とせせら笑いで言う。

 

それに対して私は何も言えないのである。

 

奴は「あ~あ、貧乏人とは付き合いたくないよな、でも、お前とは

切っても切れない縁だし、俺も付き合う奴を間違ったよ」と

ほざきやがるのである。

 

私は、この時とばかりに「俺も同じだよ、お前が貧乏神なのではないか」

強い口調で言うと、

 

奴は「待て、お前ね、自分の性格を俺のせいにするなよ

今までいくらでも、貯められただろう、それをしなかったのはお前だよ、

あれだけ稼いでいて使ってしまいやがった。

あれば、あるだけ使って計画性が無かったのだよ、お前は」

 

奴の言うとおりなのである、反論できなかった。

奴の行っている事は正しい、私は全盛期の頃は人の3倍近く稼いだ

今から34年前で月100万は稼いでいた。

その頃はコンピュータの絶頂期であり、大手がシステム開発に

躍起になっていたし、人材も少なかったので仕事が出来る奴には

どんどん仕事が回って来た。

 

私も全盛期で色んな会社から「入社しないか」と声が掛かっていたが

一匹狼で自分の好きなようにやっていたのである。

仕事にも自信があったし、油の乗っている時期で生意気盛りであった。

それを知っている彼には弁解できない自分が居た。

 

私は歩きながら“こいつ、また嫌味を言いに来たのか”と思いながら

奴と肩を並べながら歩いていた。

(111)

変な奴2-1

4月 27th, 2014

最近また奴と会ってしまった。

私は気が付かなかった振りをして、通り過ぎようとしたのである。

 

そうすると奴が声を掛けて来た「久しぶり、知らんふりはないだろ

俺を嫌いなのか?」と言う。

 

私は「お前か、考え事をしていたので気が付かなかった」と言って

誤魔化したのである。

 

本当は気が付いていたのであるが、また嫌味を言われるのが嫌だったから

気が付かないふりをして通り過ぎようとしたのである。

 

奴は「本当か?俺に何か言われると思って、知らんふりをしたのだろう、

俺と思えは親友じゃないか、つれないぜ」と薄笑いを浮かべながら

こちらを向いて言うのである。

 

私は「親友?俺にはストーカーにしか見えないけど」と言い返すと

奴は「おい、おい俺を犯罪者扱いするなよ、俺はお前とは切っても

切れない親友だと思っているのだぞ」と言いやがる。

 

私は「お前は俺の事を全部を知っているストーカーだよ、親友じゃない」

と強い口調で言うと。

「待て、俺がストーカーなら、犯罪者扱いされないストーカーだな、

お前は俺をストーカー扱いするが、困った時などは相談するじゃないか

それでもストーカーと呼ぶのか、それは自分勝手すぎないか?

お前は相変わらず変わっていないな」

と何時ものごとく嫌味が始まる。

 

確かに奴の言う事は、もっともなので私は言い返せない。

 

奴の顔を見ないように「今日は俺に用事か?」と言うだけである。

 

奴は「お前と俺は一心同体なのだから、用事かは無いだろう」

「いつものごとく、君と付き合うよ」と

私の顔を覗き込むようにして言うが、

 

私は顔をそらしながら「付き合いたくないな」と

小声で呟くと

 

奴が「何か言ったか、今の言葉は聞き捨てならないな」と

横柄な口調で言い返して来た。

 

私は「分かった歩きながら話そう」と、はぐらかして答える。

 

私は内心、こいつ、また何かを感じて言うのだろうと思いながら

奴と一緒に歩き出した。

(31)

新たなる第一歩へ3

4月 26th, 2014

中途半端が嫌いな私は、やり出したら止まらない。

嫌な性格である(自分でも思う)

 

それから構築まで、こぎつけたが、約8カ月掛かった。

はっきり言って、このシステムは私が帰国したら

どうなるか自信が無かった。

 

内部体制が難しい、システムは人で動くものである。

人材を育てるか、良き人材がいるかによってシステムは

稼働するし、生きるのである。

 

どんな良いシステムを作り上げても、良き人材がいなければ

ただの構築物であり、死んでしまう。

 

余談は、ここまでにして被災地で私が考えたのは高校生に

このeラーニングシステムを構築して都会と同じ教育環境を

作り上げ、勉強して貰いたいと思った。

 

私自身、構築して来た経験を生かして、若者を育てる事に

私の経験を生かしたいと思ったのである。

 

そこには自分なりの経験(貧しかったから勉強したくても

思うように勉強できなかった)もあったからなのである。

 

また私自身、短大や専門学校で教えた経験もあったので

人を育てる大切さも多少は分かっている。

 

そこで目を付けたのは情報科のある高校である。

何とかコンタクトを取ろうとして、ボランティアに行くごとに

周りに頼んだりしていた。

 

そんな事で町長に話を持って行く事が出来たのであるが

残念ながら公立であり、県が管理しているのであるから

町では何とも言えないと言われてしまった。

 

私は本来、お役人(行政)が嫌いなタイプである。

ドミニカ共和国でODAの計画案を作成して提案が通った時

外務省から計画金額などの調査に、役人が来た時もそうであるが

お役人ヅラして、夜の接待をほのめかしたりする。

 

私は、そんな連中を日本で多く見て来たので、彼らに対しては

嫌悪感をかんじてしまう。

 

だから、今回県庁に話を通さなければならないとなると

私の性格では問題があると自分自身で感じた。

 

だがやりたい。

だから違う方法か、私が前面に出なければ良いのであるから

計画案を作成して、その人に行動を起こして貰おうと考えている。

 

私は歳なのだから前面に出る必要もないし、良いと考えてくれる人が

やれば良しで、若者が育って復興に尽力できる力を付ければ良いのである。

 

これは私たちが戦後の復興で培って来た事を、

次の世代に伝えて行く義務があるし、被災を経験した若者が

それを生かす事に微力ながら手伝えれば良いと思っている。

 

高齢者問題より、こちらの方が受け入れてくれる事が早いであろう。

だが高齢者に対しても、何か方法を変えて挑戦したい。

 

生きてる限り挑戦が、私の信条である。

私は生意気な人間なのであろう(他人から見て)

 

でも、これが老いを感じさせない秘訣でもある。

私は10歳以上、若く見られます(自慢・・・)

 

(122)

新たなる第一歩へ3

4月 25th, 2014

そこには若者を育てる事が重要である。

私は、ある機関で、アルゼンチンでeラーニングの構築を行った。

それは資金も無く、人材も居ない状態であった。

そこで無償で使えるeラーニングシステムを探し出した。

 

それは全世界で使われているシステムで、

非営利なら使えるシステムである。

日本でも多くの大学が使っている。

 

これなら資金を掛けなくてシステムが構築できると思った。

この派遣は前任と、その前の前任者と合わせて4年間赴任していたが

内部はシステム構築など出来ない体制であった。

 

前者たちはシステムエンジニアとして赴任していたが

内部は、PC管理は個人が操作する状態であり、

自分なりのデーター管理体制しか出来ていない、

私は長い間システム構築を手がけて来たので、

これでは構築できないと判断して、その旨を伝えた。

 

だがアルゼンチンに来て何もしないで

帰るのも問題と感じてしまった自分がいたのである。

それはボランティアとは言え、日本の人たちが払った

税金で来たのであるから(日当2、350円)

 

悲しいかな自分の性格は来た以上、やるだけの事はやりたい。

この仕事は、はっきり言って尻拭いであり、

アルゼンチン事務所が、どうにもならなくて要請したようだ。

 

内部体制から整え、eラーニング構築まで10カ月で行う。

資金もなく、人材も居ない状態で、どの様にすれば良いのか

当初は迷った。

 

だが迷っていても解決しないので、遣る事にした。

 

初めはMicrosoft関係で構築を考えたが、内部の人材では

構築後の操作や管理が出来ない。

アプリのソフトを買うにも資金が無い。

 

こんな事を繰り返しながら、私は派遣先と部屋での葛藤が

始まった。

アルゼンチンは日本との時差が13時間ある。

だから部屋に帰っても寝る暇が無い状態である。

 

最初の頃は時差ボケで問題は無かったが、時が過ぎると

疲れが出てくる。

60歳を超えた自分には辛い部分はあった。

 

 

(123)

新たなる第一歩へ2

4月 24th, 2014

新たなる自分を考えるなどと、生意気な事を書いたが

この性格はもう治らないであろう。

 

今回もそうであるが、被災地でのボランティアでも考えたのであるが

最初の頃は被災者の支援を行っていたが、復興を考えた時に

被災地の高齢化では、復興は時間が掛かる。

 

そうなれば復興の為に地元の若者を育てる事が

重要だと考えたのである。

 

将来的に見ても、高齢者では復興に限度がある。

長い目で見て行かなければ、復興は成り立たないであろうと

自分勝手に考えて、行動を起こそうとした。

 

それは地元の高校生を育てて、復興の新たな

担い手と思ったからである。

 

私たちが復興と言っても、それは被災地の外からしか

見ていないのである。

それも大切であるが、地元を立て直すのは、

そこに住んでいる人たちが一番重要な役割を担う。

 

だが高齢化が進んでいる被災地では限度がある。

 

私は考えて地元の高校生を育て、復興に力に

成れば良いのでないかと思ったのである。

 

それは、あの災害を知っているし、災害前の自分たちの

町も分かっている。

どちらも分かっていると言う事は、自分たちが

経験して来ているのである。

 

私の考え方は経験している事によって、新たな事を考える事が

出来ると信じているし、そこには私たち部外者(ボランティア)とは

思いが違っている。

私たちは、あくまでも映像でしか見ていないし、恐怖感も味わっていない。

 

それは第三者目線で見ているにしか過ぎないのである。

それも重要な面もあるが、自分たちは経験していないから

あくまでも優しさでしかないし、人間の脳裏から消えさる率は

早いと思う。

 

だが、経験している人たちは自分の脳裏から一生消え去らないだろう。

この差は大きい。

 

私たちは第三者目線でしか見ていない。

これには、大きな違いがあると思う。

経験したて苦労したのと、経験なしで伝え聞いたのとの違いである。

 

私は、復興は地元住民の力が必要であり、将来的な面も考えて

計画するべきであると思っている。

 

続きは明日に・・・。

 

(116)

新たなる第一歩へ

4月 23rd, 2014

前に書いた、高齢化に関して、自分なりに動いてみました。

 

だが結果は、自分の期待する部分がなかったし

失望してしまった自分が居ます。

 

ただ、ここで終わっては自分の考えが甘かったと思い

再度、違う方向から考えて行きたいと思っています。

 

まず失望は高齢化している方が、諦めが先に立っている事です。

これは日本人特有なのかもしれませんが、

出来ないだろう、やってもしょうがない、

やって失敗すれば周りから何を言われるかわからない、

皆がやっている事をやれば、何も言われないし、

もめ事も起きない等、色々な面を垣間見ました。

 

これは、今までも感じていましたが、寄らば大樹の陰、

皆で渡れば怖くない、出る釘は打たれる。

日本人特有の考え方(これは私だけが思っているのかもしれません)

これが先行して、新たな事に挑戦しようとしません。

 

新たな事が出てくると、それに対して疑心暗鬼を起こす傾向が

強く感じました。

 

色々な人と話しましたが、周りは乗らないでしょう。

もし実行しても、貴方が利益を得る為とか、あまり良い事は

言われないかもしれませんよと忠告もされたりもしました。

 

確かに新たな事をやろうとすると、今までも、このような問題は起きて来た。

それが日本社会の構想であったし、人間社会の仕組みなのかもしれない。

 

だが、踏み出さない限り進歩は無いという考え方の私には

無性に腹が立つ。

 

それで企業に居た時も同じで、上と、ぶつかり幾度も喧嘩をしたのであるが

懲りない自分は、考え方を変える気は無いのである。

 

今回は団地の高齢化に対して、互いに見守りを行いたいし

足腰の弱った方に重い食料などの配達作業を軽減させたい

と思ったのである。

 

これは日本人の主食であるコメは、誰しもが食べるものである。

注文を取りながら見守りを行い、人とのコミューケーションを

作り上げて行く事、次に主食のコメを被災地から宅配で送って貰う。

 

コメは毎日食べるものであるから、必要であるし重いから大変である。

それを、ある程度の量を注文する事によって、価格を下げて貰う事を

行って、東北の被災地のJAか農家との契約をするシステムを考えた。

 

だが、これは幾人から意見を聞いたが「必要ないのでは」

今で充分であるという意見が多数であった。

 

確かに現状では必要ないが、これから進む高齢化を考えると

やって置くべき事と考えたが、幾人かと意見が噛み合わなかった。

 

皆さんの考え方は、現在動いているから良いのだ。

無理に新しい事をやらなくても、今さえ良ければ無駄な力を

使いたくない。

 

これが日本の現状なのかもしれないが、私は小さくても良いから

挑戦して角度を変えながら、別な方法で高齢化に挑戦して行きたい。

 

そのためには、高齢者の考え方を変えなければならないが

これが最大の難関であろう。

 

前に書いたが、「日本人と政治」の封建的民主主義の精神が

染み付いてしまっているのを感じた。

 

高齢者が、この考え方で選挙に投票する限り、日本の政治は

変わらないであろう。

 

投票率が高いのは高齢者であるから、

高齢者の方は、「私たちの行く先は決まっている。

だから無駄な事はしたくない」

 

これは私自身も高齢者であるから分かるが、次の世代の事を

考えるべきであると思う。

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田舎者の私3

4月 22nd, 2014

田舎者の意味は、大辞林で調べた結果 [1]田舎の人。田舎育ちの人。 [2]礼儀作法を知らず、やぼで気の利かない人を ののしっていう語。また、自分をへりくだっていう語。

 

1.は当てはまるのです、前にも書きましたが、 私は北海道の函館生まれで、子供の頃に育ったのが 夕張でしたから該当します。

 

さて、問題は2.の意味ですが、二番目のへりくだった部分は 年齢と供に多少出てきたかと、自負している部分がありますが、 礼儀作法を知らず、やぼで気の利かない人は

自分では、あまり該当していないと思っているのです。

 

ただ、この思い込みは自分で思っているだけですから、 他人から見ると、どうなのかは分かりません。

 

私の父は特に礼儀作法には、うるさい人で幾度も 叱られた経験があ。ります。 その頃は何でこんなに叱られるのかと思うくらい、 小さな事でも叱られていました。

 

他の家では、そんな事で叱りもしない事でも 父は叱り拳固が飛んでくるのです。

 

寝る前には「おやすみなさい」は当たり前で、

それも正座して、手を前に揃えて、頭を下げるのが日課でした。

 

そんな事で、礼儀作法や気の利かない人間に 育たなかったのですが、どうも私は田舎者の意味を違って 理解していた部分があったように思います。

 

私は、田舎者とは素朴で人の好い、話好きなイメージを 浮かべていたのです。

 

私が出会った田舎の人たちは、そんな感じの人が 多かったのです。

 

そんな事で、私は自分のイメージで田舎者を作り上げて いたのですが、私はそれで良いのだと思っています。

 

すなわち、私は田舎の風景と、そこに住む人たちを 一緒にして田舎者として、自分の中で作りあげていたのです。

 

そんな私は「野暮で気の利かない人」なのかも知れません。

 

そうであれば、2.の一番目も該当するのかもしれません。

 

そんな事で、私はある程度長く生きて来ましたが、 まだまだ、自分は分からない事が沢山ある事に気づかされます。 これからもっと勉強して行かなければならないと思っている

歳取った田舎者の私です。

 

 

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